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『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』著者インタビュー(1):永瀬恭一

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永瀬恭一個展「もぎとれ 青い木の実を」展示風景より

『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』の著者のお一人である永瀬恭一さんの個展が、3月22日(日)からはじまったということで、展覧会に行ってきました。

会場は、東京スカイツリーから歩いて15分ほどにある《6号線》というスペース。『めぞん一刻』を連想させるようなアパートの一室を改装した味のあるオルタナティヴ・スペースです。個展の内容は、昨年から今年1月にかけて那須・殻々工房で行われた同名個展の出品作から一部を展示した”抜粋巡回展”ということで、一辺37.6cmのスクエア作品が、計7点展示(うち1点は今回のための新作)されています。

押し入れの下段には、ボナールやマネの画集がたくさん並んでいます。これは、今回の作品群が、そうした画集を見ながら、画集から受けた感覚を絵画化するというコンセプトで制作されているためであり、いわば作品の元になったもの。そもそも印象派は、風景から受けた”印象”を絵画にしましたが、永瀬さんの作品は、その”印象派の作品の印象”を絵画にしたものです。

元になった画家でいうと、7点中6点がボナール、1点がマネだそうです。今回選んだ作品にボナールが多いことについては、「ボナールの作品は画面が揺れているようで描きたくなる」ということでした。

とても美しく清々しい作品ですし、値段的にもコレクタブルな価格設定なので、ペインティングが好きな方にはぜひ実物をみてもらいたいと思います。

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さて、展覧会は実際に見にいってもらうとして、ここでは会場にて行った新刊についての著者インタビューを以下に掲載いたします。本の副題に「それぞれの作家の視点から」とあるように、本書は、中村ケンゴさん、眞島竜男さん、永瀬恭一さん、3人の作家の視点が絡み合う内容ですが、永瀬さんはどのような視点で90年代からゼロ年代のアートシーンを読み解いていったのか。本書の導入ともなる内容ですので、ぜひご一読ください。


『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』
著者インタビュー(1):永瀬恭一

― この度、出版となる『20世紀末・日本の美術—それぞれの作家の視点から』において、永瀬さんが伝えたいことは何でしょうか。

永瀬 「歴史はこれからたくさん生まれる」ということです。つまり、これまでのように特権的な学者や語り手が一つの物語をつくっていくのではなく、ネットも含め様々なメディアにおいていろいろな歴史が記述される。それらが全て資料体としてアーカイヴされ、あとから如何様にもつなぎ直される、そういう可能性に常に開かれるようになる。これからそういう時代になるといいなと思います。日本の美術の歴史に関しても、今後たくさん生まれていく。それはアートダイバーで出している中ザワヒデキさんの『現代美術史日本篇1945—2014』でもあるし、今回の『20世紀末・日本の美術—それぞれの作家の視点から』も同様です。一つの時代を、別の角度から様々な立場の人が記述していく、その一つのモデルにこの本がなるといいと思っています。

― では、今後生まれてくるであろう多数の歴史の中で、今回の本において永瀬さんが紡ぎだそうとした歴史はどのようなものでしょうか。

永瀬 僕が考えたのは、これまでメディアに拾われてこなかった、あるいは今後も拾われなさそうな、語られていない出来事を語るということです。
横浜美術館での奈良美智展にあわせて、木村絵理子さんが企画された「20世紀末・日本の美術 ―何が語られ、何が語られなかったのか?」というシンポジウムで、木村さんが設定したのは「なぜ、これまで奈良美智は(批評的に)語られてこなかったのか」ということだったと思うんですね。その理由や状況を作家とともに考えようというわけですが、僕はそのオーダーには可能な限り応えつつ、同時進行で考えていたのは、「より遥かに語られていない出来事がある」ということです。それをいろいろな角度からこのシンポジウムに投入することが僕の裏の戦略でもあったわけですね。「語られていない」と言われる人は、実は語られているんです。

― なるほど。そういう面はありますね。

永瀬 若冲が典型的です。日本の美術史界で異端の画家だったとか、無視され続けてきたと一般にイメージされていますが、あれだけフィーチャーされ続けてきた画家はいないわけです。浅田彰さんも「若冲が忘れられていた時代などないよ」とどこかで言っていた。でも、それとは別に、本当に語られていないことや触れられてこなかったことはたくさんあるはずです。
これまで特権的な語り手が、狩野派を中心としたメインの日本美術史を語り、それに対して奇想の系譜のようなカウンターが語られる。一見それらしい対立構図の中で歴史は形成されてきたのですが、実はこの大雑把な構図の下には、触れられていない事象や側面がある。その、我々に届かなかった歴史(デッドストック)をどう考えるのか。あるいは若冲 vs 狩野派のような、「届き方・読まれ方」が決まってしまっている歴史・出来事をどう細やかに解きほぐして未来に送り返すか。
眞島竜男さんが今回の本の中でも言っていますが、近年になって中央の力が急激に落ちてきた結果、それまで見えてこなかったものが見えてきている。伏流水のように一気に溢れ出てきたというのが今の状況だと思うんです。僕などがこういうところに呼ばれて文章を書いたり、発言したりということが起こるのは、まさに中央の力が落ちているからです。無数の立場を大きく束ねるというフィクションが今、形成できなくなっている。歴史が単線ではなく編み目化し、歴史がたくさん生まれてくるという展開をどのように、その複雑性の相において捉えるかというのが今後の課題でしょう。

― 中央の力が弱くなってきたことによる状況の変化は、この本の底流にある大きなテーマですね。

永瀬 その先があるんです。これは自分の企画の「組立-転回」のイベント『オルタナティブ・アート・セオリーに向けて』でも言ったことですが、分かりやすい単純なパターンからお話しましょう。大文字の美術史、例えば権威としての美術史家・美術批評家や美術館が弱くなると、僕が個展をしている《6号線》のような小さなスペースにも注目が集まるし、逆に美術館自体も、その中にいる実験精神をもったチャレンジングな人々によって、オルタナティヴ・スペース化していく。実際、近年の東京都現代美術館や東京国立近代美術館のアクロバティックな常設展、あるいは「14の夕べ」のような企画をみると、美術館の中にオルタナティヴ・スペースのようなものが生まれている。つまり美術館でもオルタナティヴ・スペースでも、どこでやっても同じだという状況が起きる。その時にどこが「勝つ」とされるのか。「勝ち負け」は関係ないではないか、という理想論の後ろ側で、実は実体的に美術館が「勝つ」んですよ。美術館は今、一周回って非常に強い。特に国立美術館は強い。

― それはなぜでしょうか。

永瀬 端的に言えば、そこに予算と人事(人脈)があるからです。実際には多くの美術館も非常に厳しい。一部の館を除いて実験的なことをやるお金はない。でもオルタナティヴ・スペースはそれよりさらに徹底してお金がない(笑)。相対的に、やはり美術館は強いということになる。しかし、その強さの実態は、近代美術という理念とか哲学に裏付けされた「権威」ではなく、予算とか設備とか、あるいは人的ネットワークといった要素によってなのですね。
この実際的な分割線は美術館の外/中、といったところだけにあるのではない。美術館の中でもそうなのではないか。つまり企画のコンセプトや理念ではなく、動員予測や行政への説得テクニック、スポンサーの獲得力を含めた「使い勝手」の分かりやすい所に決定権がより一層偏重していくのではないか。象徴的なので美術館を挙げていますが、大学、あるいはアートマーケットの内部だって同じだと推測します。
簡単にまとめてしまうと、「なんでもあり」になった結果、すごくシンプルなかたちでの「権力」、かつてのような理念性を盾にした「権威」ではない、金額や予算として数値化されている分抗うことが難しい「権力」を持っている場所や人や企画に、いろんな決定権がすうっと持っていかれてしまう(変な例ですが、VOCA展がいまだに奇妙な力学で存続し続け、不可思議な「力」を発揮しているのもその一面です)。
美術館や大学やアートマーケットがそういうかたちで、批判すらし難い素朴なレベルで強くなってしまうのは、その中にいるチャレンジングな人々にとっても、きっとつまらないと思うんですよね。美術館や大学やアートマーケットにおもしろさがあるとすれば、コンセプトが、理念が、チャレンジが自分たちにあるからだ、と言いたい人々はいるはずですし、実際、おもしろい試みがあるのは、そのチャレンジングな人々が自分達の現実条件(そこにはある種の権力も含まれる)を踏まえた上で、それに囚われない成果を示した時でしょう。
美術や美術史というものが、美術の力を信じているとか、美術に大事なものがあるという理念的なものではなく、そういったものを棚上げにした水準、単に予算や人事を持っているかどうかで「勝って」いく、決まっていくのでは身もふたもない。同時に、オルタナティヴ・スペースの可能性というものも、いまやあまりに一般化し、消費され終えた感がある。オルタナティヴ・スペースの可能性を「商品」にすることだってあり得る。大事なのは美術館かオルタナティヴ・スペースか、という話ではなく「結局はお金」とか「結局は人事(人脈)」といった、あまりに貧しく単純な”現実の反映”に美術の可能性が落ち込むことなく、いかにそのような即物的決定権、自分自身を規定して行く諸条件に抗うかではないか。
お金がどうでもいい、とうことではないのです。無論お金を含めた実際的な力は重要です。これは僕のような立場では身にしみている。しかし、それはそれぞれが考える美術のおもしろさ、作品に向かうために手段として必要なのであって、お金や職位を得るために、権力を得るために美術を利用する、といった主客転倒には警戒しなければならない。これはむしろ貧しい美術家こそが陥りやすい罠です。重要なのはこういった罠とは水準の違った「新しき場所」を、美術館や大学やオルタナティヴ・スペースの内でも外でも、ありとあらゆる場所で切り開いていけるのか。その為の新しい経済圏やプラットフォームを手段として、手法として構築できるのか。そこです。
僕の今の話は美術の世界だけの課題ではなく、世の中全体が「予算と人事」で動いていて、美術が適切に対応できず流されている、その結果だと思います。既存の制度の内・外関係なく、こういった現状に対して美術や芸術が抵抗原理を提示できるのか、そういった作品を生み出しうるのか、その為にどういうゲリラ戦をやっていくのかが僕のやりたいことかなと思っていますし、今回の『20世紀末・日本の美術—それぞれの作家の視点から』という事業の、もっとも大事な可能性でもあると思っています。

3月22日・永瀬恭一個展「もぎとれ 青い木の実を」(会場:6号線)にて

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細い廊下の向こうが6号線

『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』の目次、内容はこちらへどうぞ。

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個展情報
「もぎとれ 青い木の実を」鳩の街巡回抜粋展
2015年3月22日(日)〜4月20日(月)

昼間のみ開場:土曜日+日曜日 13:00-18:00
夜間のみ開場:月曜日+金曜日 18:30-21:30
*4月3日(金)、及び火、水、木はお休みです

会場:6号線  http://roku888.blogspot.jp/
東京都墨田区向島5-50-3 鈴木荘二階2号室(鳩の街通り商店街内)
東武スカイツリーライン曳舟駅より徒歩約7分 押上駅より約15分