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無料公開|荒木慎也「受験生の描く絵は芸術か」

荒木慎也『石膏デッサンの100年―石膏像から学ぶ美術教育史』の先行研究となった論文「受験生の描く絵は芸術か」(2005)を公開します。

荒木慎也「受験生の描く絵は芸術か」

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荒木慎也「受験生の描く絵は芸術か」

「私は決して受験に青春を賭けた人間ではないと、そう思っている。(中略)しかし、長い間の受験生活というものを繰り返していれば、結果的には受験ということに青春を賭けたのと同じ意味合いにとられる場合があるかもしれない、不思議なことでさえあるだろう、数ある大学の中で、1校をのみ何年も受験を試みるということは。そして当然、そこに疑問が生じる。『なぜ芸大だけを受験するのか、何か他校にはない利点があるのではないか』という疑問が。」

 「要は、いかなる環境に置かれようが、自分の実力を十分に出せるようになることだ。私が四年も受験を試みるのは正にそのためであると思っている。」

(石塚一男「なぜ芸大を四年もうける」『藝術新潮』1969年5月号、154頁)


1章 語る行為をめぐる循環

 本稿で私が試みようとしているのは、既知の美術作品について「重要である」だの「何々の影響を受けている」だのといった評価を下すことではない。それ以前の問題、つまり「そもそも美術を語るという行為は一体どういうことなのか、それはいかにして可能か」という漠然とした問いに対して、身近な事例に基づいて思いをめぐらせることである。

 美術という概念は、美術史や美術批評などの言説によって歴史的に構築されたものである。従って、個別の美術作品であれ美術一般であれ、我々が何らかの形で「美術」なるものに言及するということは、即ち「美術」という概念を構築してきた、「美術言説」に言及することに他ならない。しかし、我々が何かを語ろうとする時に用いる「言語」という道具は、自己言及を行うことによって矛盾をきたしてしまうという脆弱性があることが確認されている。そしてこの脆弱性によって、我々は種々の制約を受けている。これを先の美術の文脈に置き換えると、おおよそ次のことが言えるのではないかと私は考えている。

 例えば、20世紀の美術は、それまで自身が刻んできた歴史的な文脈に立脚することで新たな歴史を構築することが可能になったと言われる。ならば、こうした美術作品を語る営みは、本質的には、多層的に織り込まれた文脈を解きほぐす作業に他ならない。しかし、この文脈というものは決して「美術」という範疇の外部から与えられたものではなく、美術を語る主体が自ら構築してきたものである。この考えを敷衍すると、究極的には、我々は美術とは何かを語ろうとするその瞬間、自らがその一部分でしかないはずの言説体系を外側から俯瞰し、超越者の視点から解釈していることになる。これは範疇誤謬に他ならない。

 この批判は語る行為を静無時間的に捉えた場合のみ適応されるものであり、美術言説の長い歴史を考えると、実際には先の時代の語り手が織りなした言説を後の時代の語り手が再解釈しているわけだ。従って範疇誤謬には当たらない、という反論も成り立つ。しかし、現在の語りの有効性が先の時代の語りによって保証されているとすれば、今度は「語りの究極的な根拠にたどり着くには、一体何時の語りにまで遡ればよいのか」という疑問がわいてくる。こうした遡逆的な問いは、ある地点に到達することで根源的な解答が得られるものではない。従って、範疇誤謬を解消するために言説に時間軸を導入することは、同時に無限退行演算を導入することでもある。ここでもやはり我々は、美術とは何かを語る行為を論理的に正当化してくれるものが何もないことに気づかざるを得ない。

 この種の問いは、より広くは「共有知問題」などとして語られ、理論社会学などの学問領域が解決の方途を探ってきたが、いまだ十分な解答は得られていない(例えば、竹中:2004年を参照)。もっとも、美術は自然言語で語られるものであるから、こうした批判とは無関係に、美術はある種の曖昧さを孕みつつ語られ続けるであろうし、所詮は屁理屈に過ぎないのかもしれない。

 では、なぜ、私はこのような抽象的な批判から本稿を始めたのか。それはもちろん、美術の営為を言説から切り離して本質主義に回帰するためでも、言説のメタ分析に傾倒して自閉的な言語空間に閉じこもるためでもない。ここで私が言いたいのは、要するに次のことである。

 美術という、その存在自体が美術言説の文脈に依存している対象をその文脈において語る行為は、自らが使用し得る論理体系では内包し得ない対象を、にも関わらずその論理によって内包しようとする、越権的な試みにほかならない。この点に無自覚なまま美術を語ることは、語り手が自らの存在を言説の外部に措定し、あたかも超越的な神の視点から美術を語ることに他ならず、自らの語りの普遍性をそうしたレトリックによって演出することになってしまう。これは、美術が美術であることの意味を疑わず、美術という概念の自明性を本質主義的に再生産するという、誠実さを欠いた態度である。

 従って、以下の文章は、こうした論理の罠に陥らずに美術を語る営みはいかにして可能か、という問いに対する私なりの試みである。

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 さて、以上の問題意識に基づいて、私が分析しようとしているのは戦後日本の美術教育、より具体的には東京藝術大学油画専攻と、それをとりまく美術予備校である。このように特定の範疇に対象を限定して分析を行うのは、既に述べた自己言及の問題を回避するためである。だが、読者の多くは「なぜわざわざ受験などという現象を分析するのか」という印象を持たれると思う。なぜなら、美術家や批評家をはじめとする多くの者が、受験に対しては非常にネガティブな印象を抱いているからである。これについての例は枚挙にいとまがないが、参考までに中村政人編『美術と教育1999』から、原久子の言葉を引いておこう。

「今の美術大学の実技試験は、予備校などで各大学の傾向と対策が行われていて、大学ごとに攻略法が教えられている。そこにあるモノを、自分の目で観て描いているのではなく、教えられたことを描いている。デッサンの基礎は大切ですが、モノを見て描くというのがデッサンであって、覚えてきた傾向と対策で描けるというのが、合否の判断材料になるというのは間違っている。」(中村:1999年、92頁)

 だが、ここで立ち止まって問うべきは、こうした「間違っている」現象が、国立の教育機関によって制度的に保証されており、さらには多くの美術家がそこを通過しているという状況が、戦後一貫して続いているのはなぜかという点である。私が受験という主題を選択した理由は、ここに美術を支える論理の綻びが顔を覗かせているからである。この裂け目を凝視することで、論理の構造を内側から視覚的に捉えることができるのではないだろうか。そのような希望的観測に立って、分析を進めることにしたい。

2章 「絵作り」

 はじめに、藝大とそれをとりまく受験産業の全体像を素描しておきたい。受験産業は、「東京藝大および有力私立美大」「美術予備校」そして「受験生」の三者が主な構成員となっている。とはいえ、実際には美術家・批評家等が大学教員ないし講師として勤務しているので、「藝大・美大」カテゴリーには日本のアートワールドの一部も含まれている。受験産業の中心には藝大が存在し、周辺には大量の受験生が存在する。そして両者の中間に美術予備校が存在し、受験生を周辺から中心へと吸い上げるエージェントの役割を果たしている。

 ここで注意しておきたいのは、これら三者の境界は明確に引くことはできない、ということだ。確かに藝大と予備校は別個の機関だが、両者の間では常に人が移動し、様々な形でネットワークを形成している。例えば、「藝大」に勤務する教員の多くは、始めは「受験生」として「予備校」に入り、「藝大」の学生になり、「予備校」で講師を務めた後に再び「藝大」の教員となっている。

 歴史的に見ると、第2次世界大戦までの藝大、つまり東京美術学校は、実質的には黒田清輝率いる白馬会系の作家によって独占されていた。美術研究所・美校・文展ではいずれも白馬会系の作家が教師ないし審査員を務め、これら三者が結託して、新規学生の獲得から、制作技術の教育、公募展制度による評価までを一元的に管理していた。

 この制度が一旦崩壊するのが第2次世界大戦後、1949年に美校が東京藝術大学として国立大学に認定されて以降である。国家公務員となった藝大の教員は、かつてのように公然と研究所を運営することが不可能になり、藝大と研究所の直線的な関係は失われる。その結果、研究所は藝大入試を専門に手掛ける「美術予備校」に転身し、多くの受験生を藝大に合格させることで藝大の予備門として生き残りを計る。その嚆矢が阿佐ヶ谷洋画研究所(現・阿佐ヶ谷美術学園)やすいどうばた洋画会(現・すいどーばた美術学院)であり、予備校同士が藝大合格者数を競うことで受験産業は発展していった。

 これら予備校で指導に当たったのが、藝大を出たばかりの若い美術家や、藝大の学生であった。予備校にしてみれば、一人でも多く藝大の合格者を出すことが新たな受験生の獲得に繋がるのだから、藝大入試に必要な技量を備え、内部事情にも詳しい藝大生を多く雇うのは自然の成り行きであった。このようにして、入試という制度を結び目とする藝大と予備校の新たな関係が構築されていく。

 藝大は、開学当初から高い入試倍率を示していた。特にベビーブームを迎えた1960年代の受験者増は顕著であり、1967年には油画専攻が42倍超という恐るべき高倍率を記録した。その結果、1960年代から70年代前半にかけて、代々木ゼミナールデッサン科(現・代々木ゼミナール造形学校)や新宿美術学院を始め、多くの予備校が設立される。ここにおいて、我々が現在目にする藝大受験産業の骨格がほぼ完成した。

 受験生は藝大合格を目指して、こうした予備校で何年も浪人を重ねる。その精神的・経済的負担は甚大であり、60年代の『美術手帖』には受験教育の弊害を憂う記事が幾度となく掲載されている。それでも受験産業における藝大の絶対的な地位は揺らぐことがなく、毎年増え続ける受験生を資源として、受験産業は成長を続けていった。

 以上が受験産業成立の基本的な構図である。とりわけ、予備校講師職が若手美術家に生活費・制作費を稼ぐ場を提供していたという点は美術予備校の歴史的意義として注目されてよい。

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 では、予備校では実際にどのような授業が行われているのか。入試問題が多様化し、曲がりなりにも受験生に個性が求められている現在、皆が同じ絵を描かされているというわけではない。ある予備校講師によると、むしろ均質化する傾向にある受験生の絵をいかにばらけさせるかが腕の見せ所だという。

「参作(合格者の参考作品)は、学生には極力見せないようにしています。見せるとみんなそれに走っちゃうんです。例えばたくさん受かった年の参作があると、それに憧れてみんなそれを真似ちゃう。そうすると合格率が落ちるんです。実力がどうじゃなくて、流行ることが問題で。大学は55通りの絵をとりたいわけだから。」(予備校講師)

 受験生に一人一人異なる絵を描かせるために、予備校によっては教室をカーテンで幾層にも区切ってお互いの絵が見られないようにするなど、様々な工夫を行っている。それと同時に、藝大に合格するためには、限られた試験時間でどれだけ作品のクオリティを上げられるかが勝負の分かれ目となる。試験会場で課題を与えられてから構想を練っているのでは間に合わない。そこで予め幾つもの作画パターンを用意して、あらゆる出題に対応できるように準備することになる。このパターンの作成を受験生は「絵作り」と呼ぶ。

「…これはどこの予備校でもやってる事だと思うけど、国技館の床は赤いから、それと似たような色の布を教室に敷いて、その上に絵を並べて『これは弱い』って言ったり。でも、確かに予備校の教育はおかしいなって思う所もあって、(目の前のビール缶を手にとって)こういうモチーフが出たとするでしょ。出題者は、やっぱり出題に対して反応して欲しいと思っているわけ。だけど、予備校でやってる教育は、最初に型を作っちゃう。具体的には、画面のここに線を入れて、ここに色面を入れて、ここにモチーフを配置するみたいな。そういう型を3つくらい持たせる。これを予備校では絵作りって言うんだけど(笑)、どんな出題でも対応できるように型を作って、この出題ならこのパターン、この出題ならこのパターンというように対応できるようにしちゃう。」(東京藝術大学学部生、2002年入学)

 こうした「絵作り」に対しては多くの受験生が否定的な見解を述べているが、これは彼/女らが美術の条件として認めているものが職人的技術や模倣の能力ではなく、誰の真似でもない自分だけの表現、オリジナリティであるということを示している。ところが実際には「絵作り」は予備校の講師の積極的な干渉の下に行われており、他の人の絵を模写させる・技法を教え込む・新しい素材を使用させるなどの指導法を組み合わせることで、オリジナリティは教育によって獲得されている。

「藝大の絵の好きなヴァリエーションがいくつかあって、綺麗な調子がふわっとした中に具体的なものが描かれているものとか、ローコントラストの色面とかがモチーフに対して立て込まれてる絵とか、ヴィジュアルインパクトで写真とか映像系のイメージをミックスしたのとか。で、さらに主役を見せるためには、主役のものと、土台と背景とがあって、リンゴだったらリンゴで、静物台で、背景っていう風にすると、このパターンは何でも使える。だからモチーフと土台と背景、その三つの役割でローコントラストでものを作る。それで自分の色を出せば、質感でできあがる。」

— なんかハンバーガーつくるみたいだね。

「そう。言葉は悪いけど。」(東京藝術大学学部生、2001年入学)

 短時間に個性的な画面を作り上げる訓練を積んだ受験生にとって、オリジナリティとパターンの習得は対立概念ではない。もちろん教育内容は予備校によって大きく異なるし、将来作家として活動していけるための基礎訓練を行う場が予備校なのだ、という志を持って指導に当たっている予備校講師を私は何人も知っている。だが各予備校の入試成績を見ると、積極的に受験生に教え込みを行っている予備校の方が成績が良いようだ。この点は受験産業の構造的な問題に関わっているので、4章でもう一度考えることにしたい。

3章 共犯関係

 既に述べたように、藝大合格者数が予備校の能力の証であるためには、藝大が圧倒的な権威でなくてはならない。だが、藝大の権威は一体何によって支えられているのだろうか。予備校で何年も浪人をして、それでも合格できるかどうか分からない大学なのだから、受験生にしてみれば魅力的な場所であるはずだ。だが実のところ、安価な学費や伝統校のイメージを除いては、藝大に取り立てて何のメリットもない、という見解が、『美術手帖』などのメディアでは古くから支配的だった。そしてこうした見方が受験生にもある程度共有されていた。次のインタビューは、1960年代の卒業生に当時の様子を聞いたものである。

(藝大受験を親に反対されることは)僕等の頃はあったね。僕もあったけど。まだ絵描き乞食っていう言葉があったからね。浮浪者やってる絵描きもいたし、貧乏絵描きとか。」(専門学校教員)

 それでも受験生は藝大を受験し続けた。本稿冒頭に掲げられた石塚一男の文章には、受かるまで受け続けるという不退転の覚悟が如実に表れている。以前に比べて多浪生が減少したとはいえ、現在でも「何が何でも藝大!」という受験生は後を絶たない。ここまで受験生を駆り立てるエネルギーとは一体何なのか。

 実のところ、1960年代に、藝大は社会的な逆風に晒されていた。草間彌生をはじめ海外で活躍する美術家が増加し、さらに貿易自由化の煽りを受けて海外の美術作品が大量に輸入されるようになると、藝大教授であった林武などの日本人洋画家の作品の値段が暴落する。更に、学生運動が70年頃に頂点に達すると、美共闘の学生が「藝大解体」を叫びながら藝大の校門に押し寄せ、藝大内部でも北川フラムが図画棟の1階本部事務室をバリケード占拠した(佐藤:2003年、659頁)

「戦後の現代美術、60年代70年代の人は藝大出じゃない人が多いんです。藝大出ている人はいるんだけど、そんなこと言ったら「体制の犬」って石を投げられる。だから藝大出身なんて言いにくいわけで、だから斎藤義重門下生が圧倒的に多いわけだ。」(東京藝術大学教員)

 権威が相対化される時代にあって、かつては国内で最高の権威を誇っていた藝大は脱神聖化が行われていた。しかし藝大は受験産業において圧倒的な支持を集め続けた。その理由は、実は予備校が藝大を支えていたからである。

 藝大が受験生を集める求心的な役割を果たさないと予備校は経営が成り立たない。その結果、予備校は藝大を裸の王様に仕立て上げることで生き残ろうとした。その痕跡は、60年代、70年代に予備校が『美術手帖』誌上で展開した広告戦略に見て取れる。「合格速報」[1]や「誌上ギャラリー」[2]に典型的に表れているのだが、藝大合格者の名前やその作品をイコンとして祭り上げることで、受験産業における藝大の権威を高揚させていたのだ。

 このように、予備校は藝大と対立構造にあるように見えながら、実際には表裏一体の関係にあり、受験産業は学生を効率的に集め、日本という場において美術家が生計をたてるための精巧な歯車であった。そしてここにおいて、「藝大の権威が予備校の経営を支え、予備校の経営が藝大の権威を支える」という自閉的な相互作用が成立する。

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 この相互依存を一層加速したのが、1974年の藝大入試改革である。油画専攻は例年1次試験で石膏デッサン、2次試験で人物ないし静物油彩という構成を採っていた。しかし、予備校の入試対策によって受験生の絵が均質化し、一部の大手予備校からしか受験生が合格しない現状を嫌った野見山暁治が、74年に石膏デッサンを廃止し、代わりに花の絵を油彩で描かせたのである。以後、藝大の入試問題は毎年変更され、次第に複雑化していくのだが、これが皮肉にも藝大と予備校の関係をかつてない程強化する結果となる。

 かつては曲がりなりにも「写実・アカデミズム」という中心軸を持っていた藝大の入試は、予備校の入試対策を先読みし、その裏をかく入試問題を出題するようになった。1980年以降の入試問題を幾つか抜粋しよう。

長さ4メートル、幅1メートル、深さ0.4メートルの溝と人物を組み合わせて描きなさい。雑誌や持参したデッサンなどを参考にして描いてはいけない。イーゼル移動不可。(1983年2次試験)

『森』『道』『都市』上記のうちから一つを選択し、絵を描きなさい。(1987年2次試験)

一つの球体と、それが存在する状態をイメージして描きなさい。(1993年1次試験)

(東京藝術大学美術学部教務係所蔵『入学試験問題』より)

 例年、予備校の予測を裏切る以外にどのような意図があるのか分からない奇抜な出題が続けられたのだが、当然、予備校も教授の動向や内部情報を事前に察知し、藝大の更に一歩先を読んで入試対策を行った。それだけの情報収集能力を持つ予備校は東京近郊の一部有力予備校に限られるため、そこに受験生が集中する。この有様を見た野見山は次のように述懐している。

「すべての予備校は、油絵受験の2日半という日数に合せて、やたら早や描きの訓練を施し、そのための溶き油の乾燥度から、効果的な下塗りの方法までをあみだした。(中略)今の学生たちのデッサンは大きく変わった。どこでそうなったのか、教室に並んでいる素描は、殆どぼくにとってイラストとしか思えない、表面をきれいになぞった細密描写だ。デッサンはもはや、受験を通過するためのテクニックでしかないのだろう。」(野見山:1987年、52頁)

 決して野見山を批判するつもりでここに登場させたわけではない。彼が受験生を「救済」しようとして石膏デッサンを廃止したのは常識的な判断だ。むしろ注意すべきは、個々人の判断を超えて藝大と予備校の共犯関係が成立する布置が、既に成立していたという点である。

4章 鏡像反復と受験絵画

 入試改革と共に、受験生の描く絵は70年代から80年代にかけて大きく変わっていった。『美術手帖』の広告ページに掲載された受験生の作品を通覧すると、木炭や油絵具で石膏像や人物の構造を丹念に追っていくアカデミックな作品が次第に減少し、奇抜な空想上のモチーフが画面に登場するようになり、描法もいわゆる「新美調」に代表される、トリッキーな視覚効果を狙ったものが増加する。

 受験絵画がこのような爛熟を見せた原因は、藝大がその権威を予備校に依存しているということに求められる。自らの権威を支える社会的な基盤を失った藝大は、予備校との関係で自らを規定せざるを得なくなる。だが、その置かれた立場は、権威を予備校に依存しつつ、同時に権威を維持するために予備校を否定しなければならないという矛盾に満ちたものだった。藝大が予備校にまなざしを向けることで、外界の美術動向から隔絶された受験産業は、大海の孤島に隔離された生命が独自の進化を遂げるように、奇妙な「受験絵画」を量産することになる。

 藝大と予備校が互いを騙し合うイタチごっこの関係は、ある時点で終了するということが原理上あり得ない。これを向かい合わせにして立てた2枚の鏡に喩えてもいいだろう。互いの鏡像を映し出す鏡は無限のレファレンスを起こすため、その内側に立つ者は中心感覚を失い、自分が拡散していくような、奇妙な感覚を味わうだろう。藝大と予備校の間に起こったのも、これと同じ現象だった。互いが互いを映す向かい合わせの鏡となり、双方が双方の反転像を映し出す。鏡像反復の無限退行を引き起こした結果、その内部に入り込んだ受験生は拠って立つべき自他の区別を失う。この現象を、精神分析学の概念である「鏡像段階」の観点から説明することも可能かもしれない。福原泰平は「鏡像」のもたらす効果について、次のように説明している。「鏡像として私が得る私の自画像とは、主体である私の運命を決定づけるものであるにもかかわらず、それは偽装された自己像でしかない。結果、鏡の像に見入られて以降、私はこの偽りの自画像に修正騙され続けることになる」(福原:1998年、52頁)

 かつての浪人生に行ったインタビューや、予備校のパンフレットなどに残された「合格体験記」などから、受験生が予備校において比較的共通した体験をしていることが察せられる。多くの者が「自分はなぜ受験しているのか」「なぜ絵を描いているのか」と煩悶した末に、自らを見失って絵が描けなくなる苦しい時期があったというのである。

「みんな疑問を持ち出すんじゃないかな。自分の絵がただの真似事っぽいとか、本当に受験の為だけに絵を描いてるけど、それでいいのかなあって。前の年の受かった絵に似たのを描いて、それで先生に受かるの受からないのって言われて。やってることがよく分からないじゃないですか。結局自分が描きたい絵でもないのに、評価されたり落ち込んだり。」(多摩美術大学学部生、2001年入学)

 藝大に受かりたいと思っているのは受験生自身だが、その欲望は元はといえば自らがその一部である受験産業の欲望が受験生に投影されたものである。その一方で、藝大は受験生の裏をかこうとしてくるのだから、受験生は自らの欲望の裏の裏を先取りしなければならない。このように、予備校と藝大が鏡像反復関係にあるということは、受験生にとっては自らの欲望の対象がその欲望の反転像でもあるということだ。入試において求められるのはオリジナリティなのだが、そのオリジナリティを発揮するはずの受験生の主体性は、無限に続く欲望の連鎖の中で自己を見失っている。鏡像反復を本当の意味で抜け出すには、藝大に合格することで自らの鏡像を破壊し、無限反復を絶ち切る以外に方法はない。受験生が時に「受験は自分自身との戦い」と説明するのは、こうした事態を表現しているのだと思われる。たとえ合格の先に見いだされる事実が「藝大に受かりたいという欲望の根拠が、自らの欲望の反転像でしかなかった」という虚しい事実だとしても。

 見方を変えて、受験生をリミノイドの概念に従って分析することも容易だろう。リミナル期にある人々の特徴として、ターナーは、「…その行動は、通常、受動的で謙虚である。かれらは指導者に絶対服従し、文句もいわずにその気まぐれな懲罰を受けねばならない。かれらは、あたかも、新しく形づくられるためにおなじ条件に変えられすり減らされるかのようであり、また人生の新しい情況に自分を適応させる新しい力を授けられるかのようである」(ターナー:1996年、167頁)と記述しているが、これらの特徴はまさに受験生のそれである。こうした状況下で、受験生が主体性を失い、講師が積極的に「絵作り」に関与しなければならないのは、むしろ必然のように思われる。

 ただし、講師も決して状況を客観的に眺められる場所にいるわけではなく、鏡像反復の中に捕らえられているという点では、受験生と本質的な差異がない。従って、講師らによって指導され、「絵作り」された絵画は、「受験絵画」という自らの様式を幾度も反復し、効果を増幅した奇妙な絵画であるか、さもなければ自己の鏡像との対決を徹底的に回避するため、既成の画家の作風を模倣した絵画か、のいずれかに決着する。両者は志向するベクトルが全く逆であるが、その根底において何かのコピーであることを免れない。[3]

5章 絵画の臨界点

 予備校と藝大のイタチごっこは90年代の半ばにある種の臨界点に達し、受験産業に異様な状況をもたらした。この時期、受験生が使用する画材の種類が、いわゆる油絵具の範疇を大きく逸脱し、油画専攻の試験会場が事実上の無法地帯となったのである。当時の状況を記録した資料が存在しないため、かつての受験生の証言に頼る他はないのだが、彼/女らの証言は当時の状況をかいま見せてくれる。

「シリコンだっけ。樹脂とか流し込んで。楽しかったけどね。私の1浪の時の2次試験の絵が、アクリル版をばーっと貼って。試験も甘かったから、外で制作してもよかったの。絵画棟の下の所でスプレー吹き付けて、ビスでとめて。まあ落ちたけどね。でも周りも滅茶苦茶やってた。樹脂削ったり。」

— 樹脂ってどんな樹脂? アクリルみたいなの?

「猛毒出るやつ(笑)。硬化剤入れたり。(中略)例えばこの年(98年)に受かった友達は、キャンバスに穴を空けて、藝大内で拾った木をくくりつけて、やっぱドリルで。もっと前になると、動く仕掛けを絵につけて受かったりとか。それとか香水を巻き付けて、絵を描かないで匂いで(笑)。」

— それ受かったの?

「受かったよ。もう何かね、狂ってるんだ。私の周りが。あと試験監督やってた人に聞いたんだけど、まだ自由な頃の話しで、樹脂が禁止になった時があって、その対策として、ゼリーを使ってたの。ゼリーだったかな、何か食べ物系。試験官もこれは駄目ですって言えなかったんだって。毒が出るやつじゃないから。それでそのまま通った人がいるって。あと銅板とか。」

— そういうことって先生が教えるわけ? 受験生自らはやらないよね。

「私のアクリル板つかってみろってのは先生に言われた。ハンズにこういうのが売ってるからって。」(東京藝術大学大学院生、1999年入学)

(講師に)すごいマニアがいるんだって。誰も知らないような画集を見せてくれたり。色んな先生がいるけど、裏技みたいなので受からせたり。」

— 裏技ってどんなの?

「制限された道具の中での、違った技法のテクニックみたいなのをもってる人もいるんだって。一つ時代が前で、何でもありだったから、いろいろ網はったりとか。油彩で、鉄板貼ってマグネットの作品とか。アクリルで人形っぽいやつで、はがれるじゃん。下にマグネットを切ってつけたのを持ってきて、ペタペタって動かして遊んだりとか。それとか、表面をツルツルにしてパレットを作っちゃう。絵具を出して、魚の絵みたいなのをちょっと描いて、油壷をどーんと刺して(笑)完成とか。でもそんで受かったって。」(東京藝術大学学部生、2003年入学)

 この状況に対し、藝大はどのように対応したのであろうか。99年の「学生募集要項」を見ると、2次試験では木炭デッサンに代わって水彩画が出題されるなど、出題内容に変化が見られる。それと同時に、藝大は受験生の異素材仕様を徹底的に取り締まるようになった。

「この年(99年)の受験だったかな、一次試験の前日ぐらいに、(予備校から)異素材の使用が危ないって言われたのね。異素材っていっても、モノクロームの無彩色だったらどんな素材でも使っちゃえって感じで、独特であればどんな素材でも良いっていう。だから版画のプレス機とか(笑)持ってくる人いたよ。いかに独特にできるかで、もう本当に方法とか素材とか関係ない。先生が仕込むのと自分で研究するのがあるけど、たぶん仕込むのが大きいね。で、どんどんエスカレートしてくる。国技館も汚れるし、ルールが汚いし、規制しましょうっていう空気が、今年からどうやら、受験の審査でありそうだぞっていうのを大学院生が聞いてきて。(中略)噂で聞いたんだけど、藝大の教授ね、『あー鉛筆でこんなマチエール作れるんだー』っていう位、素材を色々使ってるって知らなかったの。知ってるのは、講師、予備校で教えてる助手さん。で、あまりにも試験官からクレームが来たり、受かる絵の内容が胡散臭いものばかりだから、まずいっていう空気ができたの。」(東京藝術大学学部生、2001年入学)

 2000年の入試では、1次試験の鉛筆デッサンでは画材の持参を禁止され、換わりにFの鉛筆1本が受験生に支給された。2次試験の油画でも指定された用具以外の使用は厳しく禁止されている。2003年には画材の制限がピークに達し、使用可能な油絵具は藝大が支給したもののみとなり、実技は完全に藝大のコントロール下で行われる結果となった。しかし、元はといえば、80年代以降の藝大は、工藤哲巳、保科豊巳、中村政人などの現代美術家を積極的に教員に招聘するなど、人事面では現代美術寄りの改革を続けてきた。その結果、油画専攻は事実上ノンジャンルの「現代美術専攻」となっており、入学後に油絵を全く描かない学生の存在が珍しいものではなくなっていた。従って、入試においてもこのように表現手段が多様化するのは歓迎すべき傾向ではなかったのか。なぜ、取り締まりを強化したのだろう。この点について藝大は公式の声明を発表していないが、同校の元助手は次のように語っている。

(画材の支給は)確かに馬鹿らしいけど、それまでの入試がものすごくエスカレートしちゃって、こちらで制御できなくなってきた。何でもありになっちゃって試験の体裁が意味を持たなくなってきた。社会の一員としての、ね。常識が通用しなくなってきて、出題する側としては収拾が付かなくなった。もう少し元に戻そうという気持ちが働いて、もちろんこれは一時的なもので、また元に戻すだろうけど。試験で滅茶苦茶やった学生は、得てして学校で何も作らなかったりするから、だんだん科のレベルが下がってきて、こりゃいかんということになった。」

(予備校は)多く合格させるために、みんなに違う絵を描かせちゃうわけでしょ。そういうのを採っちゃう藝大にも問題はあると思うんだけど。そうやって仕込まれて大学に入ってきた学生というのは、藝大に入ると何も作らなくなっちゃう人が多い。…受験テクニックで入ること自体が問題なんじゃなくて、その後が続いていかないということが問題だった。」(東京藝術大学元助手)

 藝大は、こうした強圧的な行動に出なければ主体性を維持できない程に追い込まれていた。もっとも、穿った見方をすれば、この変革によって藝大/予備校間のパワーバランスを維持しよう(=共犯関係を今後も続けよう)としたとも解釈できる。

 一連の出来事から次のことが言えるだろう。教え込まれた学生が合格してしまうということは、個人の内発的なオリジナリティと、予備校によって擬態されたオリジナリティを見分ける目を、藝大は持たないということを意味している。しかし、擬態があまりにも優れているのだとしたら、それでも両者を識別できる「究極の目」などというものは、そもそも持ちうるのだろうか? 内発的なオリジナリティと擬態されたオリジナリティが外見上区別の付かないものだとすれば、それら二者の差異は、「それらが教え込まれたかどうか」という、作品の外側にある文脈に拠ってしか判断ができないのではないか。それとも、内発的なオリジナリティというものの存在を仮定すること自体が間違いなのだろうか? 我々は分析の末に、基本的な、それでいて解決不可能な問いに遭遇してしまった。

終章 歴史は繰り返す?

 本稿でこれまで確認してきたのは、藝大の入学試験という特定の範疇において、その範疇に含まれる存在者が「美術をいかにして語り得るか」という事例の分析であった。その帰結として得られた解答は、ある範疇に属する存在者が上位範疇との関係を遮断し、自らの範疇内で「美術」について語ろうとするとたちまち内部矛盾を起こしてしまうということであった。だからこそ藝大は受験生の画材使用を制限し、予備校の入試対策を取り締まることで、「受験生が教え込まれたかどうか」という本来ならば上位範疇に属する者のみが知りうる知識を、擬似的に獲得しようとしたのである。

 さて、もし我々が、美術を語る営為において解釈学的循環を免れ得ないのであれば、そうした言説によって構築された美術の営みそのものも、この循環を免れ得ないはずだ。従って、「藝大受験」という下位範疇の分析から得られた知見を「美術」というより包括的な範疇に適用することも無益ではないと思われる。もしこれら二つの範疇が何らかの意味で相似形を成しているのであれば、「美術」範疇においても「藝大受験」範疇と類似の現象が見られるはずである。そして、このような視点で我が国の美術史を振り返ると、90年代の後半に見られた受験絵画の過剰な表現や、それに伴う自己破壊が、既に何度も繰り返されてきた営みの新たな一ページに過ぎないのではないかと思い当たるだろう。

 例えば、受験産業を取り巻く一連の事態から、かつての読売アンデパンダン展を想起した人も少なくないはずだ。本稿では詳細な比較研究をする準備はないが、最後に追加しておきたい情報がある。それは、90年代末の受験産業を見て、入試の方法を変えるべきだと主張したのが、96年に教授に就任した中西夏之だったと噂されているということだ。

「油絵科の試験がここまでエスカレートしたのは、後にも先にもない。これは中西夏之がおかしいと言い出して、オーソドックスに振り戻した。外部からきて、新しいことをしている中西が言わないと元に戻れなかった藝大は情けない。」(予備校講師)

 かつて「洗濯バサミは撹拝行動を主張する」を出品して物議を醸した中西が、ここでは取り締まる側に位置付けられていることに、私は運命的な必然を感じている。かつて自らが辿った道の奇妙な再演を見て、彼は何を感じただろうか。椹木野衣(1998年)が指摘しているように、日本の美術史は大正アヴァンギャルドや読売アンデパンダン展などの爆発的な美術運動を起こしてはそれに伴う自己破壊を繰り返してきた。否定的に聞こえるかも知れないが、美術は美術自身と向かい合う時、自らを支える基盤そのものを失って自己崩壊をしてしまう。ならば、我々の前に残された美術作品とは、そうした体系が自己破壊を引き起こす時に発した残滓のようなものなのかも知れない。

 だが、たとえ辿り着く先が自己破壊であっても、これらの運動は、その崩壊の瞬間において、何とも形容し難い輝きを放っているように思われる。この一瞬の輝きを美術と名付けてもよいとすれば、美術とは我々にとって、そこにあると同時に既に失われたもの、ということになる。従って、我々はやはり美術とは何かを言い得ないのであるが、経験的にそれが何であるかを感じている、ということになる。ここで問いたいのだが、受験絵画の爛熟は、そのキッチュな外観にも関わらず、果たしてこの一瞬の輝きを放っていただろうか。これはやはり一考に値する問題であると思われる。

引用資料

石塚一男(1969年)「なぜ芸大を四年もうける」『藝術新潮』233号、154頁。佐藤一郎(2003年)
「昭和四十年代後半の油画専攻学生の授業」東京芸術大学百年史編集委員会編『東京芸術大学百年史 美術学部篇』ぎょうせい、659-661頁。
椹木野衣(1998年)『日本・現代・美術』新潮社。
竹中均(2004年)『精神分析と社会学 二項対立と無限の理論』明石書店。
東京藝術大学美術学部(年刊)『東京藝術大学学生募集要項』東京芸術大学。
東京芸術大学美術学部教務係所蔵(発行年不明)『入学試験問題』未出版。
中村政人編(1999年)『美術の教育』mtom。
野見山暁治(1987年)「芸大入試はどうあるべきか—『石膏デッサン』の功罪」『藝術新潮』38巻10号、49-52頁。
福原泰平(1998年)『ラカン—鏡像段階』講談社。
ターナー、V.W. (1996年)『儀礼の過程』冨倉光雄訳、新思索社。

注釈

 筆者は2004年12月に、修士学位論文「つくられる個性:東京藝術大学と受験産業の美術教育」を東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻に提出しており、本稿の2章・3章はこれを大幅に修正したものである。また、本稿において数多くのインタビューを引用しているが、これは同論文執筆のために2003年から2004年にかけて、藝大生、予備校講師など43名に対して筆者が行ったものである。本稿で使われたインタビューは、プライバシー保護のためすべて匿名である。

1 予備校が藝大合格者数を雑誌広告で宣伝するのは、筆者の知る限りでも1950年代から行われていた。『美術手帖』1979年6月号では新宿美術学院が合格者を実名公表し、他予備校もそれに速やかに追随した。以降、毎年5月号・6月号になると藝大合格者の名前が美術雑誌の広告ページを飾ることになる。
2 受験生の作品を広告として使うのも慣例となっている。とくに70年代・80年代にはどの予備校もこうした広告に力を入れていたため、当時の美術雑誌は受験生の展覧会場の様相を呈していた。
3 前者の「奇妙な絵画」は、すいどーばた美術学院にその作例が多く見いだされ、後者の「模倣絵画」の例は新宿美術学院に多く見られる。
4 これが成功したかどうかは入試結果が教えてくれる。2005年の油画専攻の入試は、雨が降っていたにもかかわらず上野動物園で行われた。そして主要予備校の合格者数は、新宿美術学院が21名、立川美術学院が10名、すいどーばた美術学院が8名(2005年4月判明分)となっている。

初出:「美術手帖」2005年8月号、160-170頁


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[interview] 梅津庸一「今、必要なヘルスケアとは」


継続開催に向けて検討中である〈KENPOKU ART 茨城県北芸術祭〉の関連事業として、2018年9月15日(土)〜9月29日(土)の2週間の日程で開催される「パープルーム大学附属ミュージアムのヘルスケア」。
パープルーム予備校主宰の梅津庸一に、今回の芸術祭への参加意図を尋ねた。


― 展覧会のチラシには、Twitterのパープルームアカウント(@parplume)による投稿「乱立する芸術祭はそれぞれに差異化を図ろうとする。観客や住民はその差異を楽しむのだろうか?」(2018年8月6日)が印字されています。芸術祭参加への立場表明ともとれますが、この真意は?

梅津 今回の企画はこちらから申し出たわけではなく、KENPOKUサイドから打診があって受けたもの。数年毎に開催される芸術祭本体の間に開催されるスピンオフ企画にパープルームが招聘されたかたちです。今年はパープルームを含め3人のアーティストが呼ばれていると聞いています。
作家1人を呼ぶ枠に、パープルームは20人を超える集団として参加します。つまり入れ子状になっている。ただし、予算が人数分増えるわけではなく、1人分の予算を20数人に分配してるので、作品の運送費や設営費だけで当然赤字になります。芸術祭への参加作家によくあるような、「予算をもらって、ちょろっと作品を出して終わり」というものとは一線を画すものになると思います。
チラシの文言もそうですが、乱立する芸術祭への苦言を皮肉交じりにステートメントに入れています。私は、芸術祭の根本的な理念に「地域貢献」があると思っていて、この事業もまた、アートの力を使って県北地域の魅力を深めようとしている。「地域貢献」とは聞こえはいいのですが、結局アートを町おこしのツールにしているような感じがやっぱりどうかなと思っています。それこそがアートがだめになっていく一因だとも思っています。そういったなかで今回の依頼が来たのですが、依頼が来たからといってコロっと態度を変えて、茨城県や県北のためにがんばりますとは言えないわけです。現在の美術教育制度全般に言及し、活動してきたパープルームにとって芸術祭もまた美術大学と同じように仮想敵であり芸術活動の場にもなり得ると思っています。

― 芸術祭への苦言をどのようにかたちにしようと考えていますか?
梅津 今回はいくつかの会場の候補から常陸太田市の郷土資料館「梅津会館」を選びました。自分にとってとりたてて興味深い歴史的背景があるわけではないのですが、この建物で展示をすれば、行政と関わっていることは誰が見てもわかる。つまり、郷土の制度的な色の強いところでやりたかった。それと、たんに「ガレージみたいなところで予算をもらいながら好き勝手にやる」とか、「住民と仲良く交流する」というのは避けたかった。あとは、「梅津会館」という名前を聞いて、ここしかないと思いました。

― 場所へのリサーチはしましたか?
梅津 いえ、あえてほとんどしていないです。芸術祭の一つの型として、場所を丹念にリサーチして地元の人も知らないような伝説とか逸話を発掘するものがありますが、それって結局、たんなる地域貢献だと私は思っていて。だからそういう意味でも貢献はしない。よそ者としてふらっと梅津会館に行った人が、思いつきそうな展覧会を様々な制約を抱え込みながらやりたいと考えています。なんとなくここに、たんぱく質さんの作品があってもいいな、とか。

― 20数名の作家の選定はどのようにされていますか?
梅津 パープルーム予備校生、パープルーム周辺の作家たちが中心ですが、今回の裏テーマにしているのは、作品というオブジェクトが持っている「時間」です。例えば、ユアサエボシさん。彼は自分を近代洋画の物故作家に設定しペインティングを制作する作家。美大は出ておらず、コンペだけでのしあがってきた叩き上げの作家です。彼の作品には戦後の1950年代に描かれた設定の絵があって、それが梅津会館(1936年竣工)の時間軸とリンクするのではないかと。大野陽生さんは、春にURANOで開催した「共同体について」にも参加していますが、彼の彫刻は2018年作なのに1000年前のものにも見えるし、古代文明の時代のものにも見える。一方で郷土資料館にある古いものが新しく見えるということもあります。あるいは、やとうはるかさんはいわゆる狭義の意味での「キャラクター絵画」と分類されがちな作家ですが、自分なりの神話や考古学を描いている。「キャラクター絵画」というのは2000年代以降の村上さん、奈良さん以降に市民権を得た形式ですが、やとうさんは太古の時間軸で「キャラクター絵画」的文法を試みている。
彼らがつくったり表したりしている時間は必ずしも今ではなくて、それらが郷土資料館のものとコネクトしたり切断されたりするのではないか、ということを考えています。また、まだパープルーム予備校に入って2ヶ月足らずの予備校生の作品もしっかり展示したいと思っています。

 

 

― そこに様式の伝達などの「受粉」を起こす可能性があると?
梅津 はい。今まで花粉が届く範囲は、現代のパープルーム周辺の作家たち、そして参照元の「近代美術」、「現代美術」が主だったと思うのですが、それがもうちょっと広がって、資料館にあるような考古物とかアートではないものとかに、ちょっかいを出していく感じです。

― ご自身は何を出すのですか。
梅津 私はアートバーゼル香港に出した《智・感・情 ―個体発生は系統発生を繰り返すのだとしても―》を加筆して出品します。前のバージョンの《智・感・情・A》は過去に8回ほど展示しているのですが、絵のクオリティとは別に、8回の展覧会やキュレーションを経験したことで複雑な文脈が付加された作品だと思っています。だからこの作品も、いろいろな展覧会の経験をさせようと思っていて、これが2回目。前回がアジアのマーケットの中心地である香港のアートフェアでの展示で、今回は芸術祭の関連企画というやや公的な場に持っていく。
また、参加作家にも新作はあまり出してもらわないようにしています。それだと新作発表のグループ展になってしまうので、旧作から選んでいる作品が多いです。

― これまでパープルームの展覧会は「パープルーム大学」という名前でしたが、今回は「パープルーム大学附属ミュージアム」。さらに「のヘルスケア」というどこに係るかわからない言葉が加わっていますが。
梅津 まず気がついたこととして、郷土資料館という形式は「ミュージアム」の原形と似ているのでは、ということでした。美術館、いわゆるアート・ミュージアムは、今でこそ博物館や科学館、図書館などと区別されていますが、16世紀以前はもっと区分が曖昧で、その土地の有力者や学者が個人でありとあらゆるものをそれぞれにコレクションし飾りつけた部屋だったといいます。現在、ミュージアムの中で郷土資料館はもっとも小規模で雑多で、日本全国の市町村に数多く点在している施設と言えます。常陸太田市の郷土資料館「梅津会館」にも縄文時代のものっぽいレプリカから江戸時代の住居の模型、現代の常陸太田市の変遷みたいなものまで、政治と科学と地質学、芸術が渾然一体となって、しかも整理されないまま置いてある。これこそ、不完全かつプリミティブなミュージアムの姿だと思いました。そうした郷土資料館に、パープルームという現代アートの局所的な要素を足すと、公的なきちんとした美術館よりも、ある意味では現代のミュージアムにふわさしいものになるのではという構想です。わずか2週間の会期ではありますが、展覧会というより「パープルーム大学附属ミュージアム」をつくるという意気込みです。

― 「ヘルスケア」とは、何に対しての健康管理なのでしょう?
梅津 今は全国各地で芸術祭が開かれています。その予算の多くは税金です。はたしてそうした予算を芸術祭に使うのがいいのか、あるいは美術館に使うのがいいのか。もしこのお金を美術館にあてることができたなら、新たなコレクションをしたり、作品を修復をしたり、充実した企画展が組めるかもしれない。美術館に行かない多くの人にとっては、美術館に予算があてがわれることは好ましいことではなく、作家が街に来る芸術祭のほうが予算が通りやすいのかもしれません。わざわざ美術館に行かなくてもアートと触れ合えるし、町が活性化するから。実際に越後妻有や瀬戸内の成功例もありますが、それに追従するように、全国各地でたいしてコンセプトを練らない状態で芸術祭が乱発しているのはどうなのだろうかと。
だから、「ヘルスケア」は、ミュージアムやミュージアムの収蔵作品へのヘルスケアであり、また芸術祭自体へのヘルスケアでもあります。美術館の予算が削られ、芸術祭だけは全国に乱立する現況がもしかしたら不健康ではないかという問題提起です。
つまり、地域アートがあることによって、ミュージアムが弱体化している。ミュージアムには宝物があり、それを一部のアートファンだけが楽しむことへの批判もあるのでしょう。しかし一方で、芸術祭で森や町の中に作品があるという状態は、観客に開かれている面があるものの、作品が芸術祭後も恒久的に設置される例は限られるし、作品が現地に残る場合でも誰がそれをケアしていくのかという問題もあります。それを街のボランティアに頼るのはあまりに心もとないと思います。そこにはマテリアルとしての作品の実存を揺るがすもやもやとした不安が付きまといます。裏を返せば物体としての作品はなくなっても民話や言い伝えのように一種の物語として残っていくという考え方もありますが、私はそれには懐疑的です。

その意味で、「ヘルスケア」といった言葉のかかる部分はもうちょっと曖昧で範囲が広く、「ミュージアム」や「芸術祭」だけでなく、プレイヤーや観客や作品も含めて、みんなのヘルスケア、そんなことをこの展覧会で考えたいということです。

ポートレイト撮影:藤田直希

 

 


展覧会名:
パープルーム大学附属ミュージアムのヘルスケア

会期:
2018年9月15日[土]〜2018年9月29日[土] 10:00〜17:00
*9月18日,25日[いずれも火]は休館

会場:

常陸太田市郷土資料館梅津会館(茨城県常陸太田市西二町2186)

出展:

金中高貴,西島大介,藤伸行,リスカちゃん,qp,星川あさこ,宮下大輔,KOURYOU,小林椋,やとうはるか,大野陽生,ユアサエボシ,堀至以,たんぱく質,茨城県が管理する映像資料,郷土資料館の収蔵品

梅津庸一(パープルーム予備校 )

安藤裕美,アラン,吉田十七歳,シエニーチュアン,わきもとさき(パープルーム予備校生)

入場料:
無料

URL:

http://www.pref.ibaraki.jp/kikaku/kenpokusinkou/art/20180829artproject.html
http://www.parplume.jp/tennji/tokusetu20189.html


関連書籍

梅津庸一『ラムからマトン』
https://artdiver.tokyo/?product=ramumato

 

 

 

[9/1 トーク]90’ 日本美術って何だったの !? — What was that !?

日本の現代美術を牽引してきたギャラリー・レントゲンヴェルケにて、「The Days Before 90’ 日本の現代美術」展(8/25 – 9/19)が開催されます。会期中のトークイベントの企画をお手伝いをしました。アートダイバー細川は、司会として参加いたします。以下が開催概要です。みなさま、ふるってご参加ください。

*******************************************************************
「The Days Before 90’ 日本の現代美術」展
8/25 – 9/19
at Radi-um von Rögenwerke AG
******************************************************************

「レントゲン藝術研究所のウチとソト」
大森にレントゲン藝術研究所が生まれたのは、1992年6月。その頃日本はバブルが崩壊し、価値観が足元から崩れていく時代を迎えていた。パブリックアートにもなる洗練された藝術と、生み育てられる前のまだ何者とも判断がつかない藝術、その葛藤のなかで、レントゲン内部ではその間にある欲求不満が密かに発酵していたのだ。今回の展覧会では、90年代にレントゲン藝術研究所内外で起こっていた日本のアートを、一部切り取って比べてみたい。

It was June, 1992 Roentgen kunstinstitut was opened in Ota-ku. Japan suffered the collapse of asset prices in the early 1990s, and people faced the times when their values shook from the step.
Artists had conflicts between Arts by sophisticated expression and the art that just was born and still can not be judged by anyone, and their frustration was building up secretly day by day.
In this exhibition, we would like to cut off part of the Japanese art situation that had happened inside and outside the gallery in such a time.

■Date
August 25 (Fri)- September 19 (Tue), 2017
12:00-18:00

■Venue
Radi-um von Rögenwerke AG
2-5-17 Nihonbashi Bakurocho Chuo-ku Tokio 103-0002 Japan
東京都中央区日本橋馬喰町2-5-17
tel./fax.:+81- [0]3-3662-2666

■URL:http://www.roentgenwerke.com/
■mail:info@roentgenwerke.com

 

★★★★★★ Talk event 9/1 fri. 19:00〜 ★★★★★★

中村ケンゴ(美術家) vs 池内務(ギャラリスト)
「90’日本美術って何だったの!? — What was that!?」
モデレーター:細川英一(ART DIVER)

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

「The Days Before 90’日本の現代美術」展に関連して、ギャラリー内にてトークイベントを開催します。
90年代初めの日本における現代美術に焦点をしぼって、「いったい、あれは何だったの?」の漠然とした問いに対し、ざっくばらんに語り合います。
語り部は、『20世紀末・日本の美術—それぞれの作家の視点から』(アートダイバー刊)の編著者でもある、美術家中村ケンゴ。対するは、レントゲンヴェルケ代表池内務。両者を仕切るのは、アートダイバーの細川英一。レントゲン藝術研究所設立前後に時間を戻して俯瞰するトーク、ぜひご参加ください。

[中村ケンゴ著書]
『20世紀末・日本の美術—それぞれの作家の視点から』
編著:中村ケンゴ
共著:眞島竜男、永瀬恭一、楠見清、木村絵理子、小金沢智
https://artdiver.tokyo/?product=20c

[6/16 トーク]3人の編集者が語る「アート・パブリッシングの現在(とこれから)」楠見清✕阿部謙一✕細川英一

ワタリウム美術館で開催中の「恋せよ乙女!パープルーム大学と梅津庸一の構想画」 展の関連イベントして、同美術館の地下書店オン・サンデーズにて「アート・パブシッシングの現在(とこれから」と題したトークショウを開催いたします。

【イベント概要】
楠見清✕阿部謙一✕細川英一
3人の編集者が語る「アート・パブリッシングの現在(とこれから)」
6 月 16 日(金) 20:00-21 :30
会場:オン・サンデーズ地下書店
参加費:1,000 円(税込)
予約・問い合わせ先:オン・サンデーズ地下書店
mail: onsundays@watarium.co.jp
TEL: 03-3470-1424

危機的といわれる出版業界のなかでも、美術書についてはなおさらきびしいといわざるを得ません。しかし、アートに特化した大型書店が出現し、一方でインディペンデントなアート書籍の新たな動向もあるなど、出版を介在させた美術の送り手と受け手の関係性は変わりつつあります。そこで、今回のトークでは、『美術手帖』元編集長で現在は大学で教鞭を執る楠見清さんと、現代美術関連のフリー編集者である阿部謙一さん、『ラムからマトン』の版元アートダイバーの細川英一さんを招き、芸術書出版の今昔、そして未来について語り合います。

登壇者プロフィール
楠見清(くすみ・きよし)
美術編集者・評論家。1963年生まれ。『美術手帖』(美術出版社)編集長を経て、首都大学東京准教授。著書に『ロックの美術館』(シンコーミュージック)、『20世紀末・日本の美術──それぞれの作家の視点から』(中村ケンゴ他との共著、アートダイバー)、『もにゅキャラ巡礼』(南信長との共著、扶桑社)。

阿部謙一(あべ・けんいち)
編集者。1969年生まれ。フリーランスとして、現代美術関連の書籍や作品集、雑誌記事などの構成、編集、執筆を手掛ける。共著に『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』(Chim↑Pomとの共編著、無人島プロダクション)、『ゲンダイチコースケの事件簿』(劇団★死期名義、アートダイバー)がある。

細川英一(ほそかわ・えいいち)
アートダイバー代表・編集者。1975年生まれ。編集プロダクション勤務の後、『美術の窓』(生活の友社)編集部へ。現代美術部門の立ち上げ、『アートコレクター』創刊を経て、2013年独立。14年、アート専門出版社「アートダイバー」を設立し、中ザワヒデキ著『現代美術史日本篇1945-2014』、宮島達男著『芸術論』などを発行している。

宮島達男「芸術論」出版記念パーティのお知らせ

宮島達男『芸術論』の刊行を記念して、4月13日(木)19:00より、CAPSULE Galleryにて出版記念パーティを行ないます。

同書には、宮島が1987年に発表してから30年となる「3つのコンセプト」の深部にある思想哲学、さらに若いアーティストたちへの箴言、教育の現場に立つ日々に綴った随筆などが、書籍初公開となるドローイングの数々と共に収められています。

つきましては、30年の節目をお祝いする意味も込め、親しい方々で宮島を囲み、出版記念パーティーを催したく存じます。会場となるCAPSULEでは、折しも「宮島達男”Counter Drawing”」展が開催(4/8~5/21)されている最中となります。

年度のはじめ、また平日のご多用な時期と思いますが、ご来臨いただければ幸甚です。

『芸術論』出版記念会実行委員会

【開催概要】
日時:2017年4月13日(木)19:00開会
会場:CAPSULE Gallery 東京都世田谷区池尻2-7-12 B1
Tel 03-6413-8055   http://www.capsule-gallery.jp/
(田園都市線『池尻大橋』駅から徒歩10分)

会費:6000円(ご来場者には『芸術論』1冊を贈呈します)
※すでに本をお持ちの方には、本なしの会費となります。詳細は下記よりお問い合わせください。
※会費は、当日、受付にてお支払いください。

ご参加希望のかたは、メールもしくはFAXにて出欠をお知らせください。
メール moffice@tatsuomiyajima.com
FAX 0297-20-6543

【お問い合わせ】
アートダイバー
info@artdiver.moo.jp
TEL/FAX 03-5352-1023

宮島達男事務所
メール moffice@tatsuomiyajima.com

宮島達男「芸術論」

著者:宮島達男
編集:東 晋平
、大森貴久(東晋平事務所)
仕様:ハードカバー(上製本)

サイズ:四六判
ページ:136ページ
デザイン:木村稔将

ISBN:978-4-908122-07-1
2017年3月3日刊行

 


すべての人がアートと共に生きる世界をめざす「Art in You」
宮島達男の最新の芸術論が詰まった箴言集

1988年、最も権威ある国際美術展「ヴェネツィア・ビエンナーレ」の若手作家部門「アペルト88」にて世界の注目を浴びて以来、国際的な活躍を続ける宮島達男。1999年のヴェネツィア・ビエンナーレでは日本代表として参加し、その評価を確実なものにしました。これまでの作品発表は、世界30カ国250カ所以上に及びます。
2000年代に入ってからは、2006年〜2016年に東北芸術工科大学副学長、2012年〜2016年に京都造形芸術大学副学長と教育の現場に立ち、後進の指導にあたってきました。
とりわけ教育に関わったこの10年は、作品発表とは違って、「言葉」を用いてメッセージを伝えることが多く、それをまとめたいという想いからできあがったのが、この書籍です。

構成は、大きく3つの章にわかれています。
第Ⅰ章「哲学の深淵を語る」は、宮島が信頼を置く編集者・東晋平によるインタビューをもとに、新たに書き下ろされました。宮島の作品に通底する「3つのコンセプト」=〈それは、変化し続ける/それは、あらゆるものと関係を結ぶ/それは、永遠に続く〉の解説にとどまらず、さらにその深層にありながら、これまで発表されてこなかったフランス思想や仏教思想のルーツにまで迫った、まさにアーティスト宮島達男の核となるテキストです。
第Ⅱ章「日々の言葉」では、2010年~16年までの宮島のツイートから、「アーティストとしての心得」や「考えるためのヒント」などが平易な言葉で語られ、第Ⅲ章「芸術と平和」では、2001年~15年に新聞などに寄稿したテキストの数々などをまとめました。

また、作品制作の過程で生まれるアイデアスケッチやドローイングなど、書籍初収録となる貴重な図版も多数掲載し、言葉のみならずビジュアルでも、宮島芸術の根幹に触れることができる書籍となっています。
近年、宮島は前述の3つのコンプトに加え、「Art in You」という概念を提唱しています。これは、アーティストだけがアートの主体者ではなく、あらゆる人にアート的な感性があり表現が可能であるという意味であり、すべての人がアートを通じてよりよい人生を送ることを提示しているのです。この本を通じて、読者のみなさまがそれぞれの「Art in You」を体得するきっかけになりますように。


INDEX

Ⅰ 哲学の深淵を語る
「それ」とは何か
三つのコンセプト

作品(ドローイング)

Ⅱ 日々の言葉
アーティストとして生きる君へ
創造の海
思考する石

Ⅲ 芸術と平和
被爆「柿の木」二世根づく
旭日興年
芸術と評価
卒業
子どもにもっと芸術を
アーティストとして生きること
教育に携わる理由
作品の名前
マチュピチュと東北R計画
エイズ孤児と芸術の出会い
冬は必ず春となる
Art in You
枯山水における「見立て」
芸術と平和学
ドローイングとデッサン
作品の永遠性と保存
アーティストの未来

作品リスト
あとがき

[著者プロフィール]
宮島 達男/Miyajima Tatsuo
現代美術家
1986年東京芸術大学大学院修了。1988年ヴェネツィア・ビエンナーレ、新人部門に招待され、デジタル数字を用いた作品で国際的に注目を集める。以来、国内外で数多くの展覧会を開催。世界30カ国250カ所以上で作品を発表している。1993年ジュネーブ大学コンペティション優勝。1998年第5回日本現代芸術振興賞受賞。1998年ロンドン・インスティテュ―ト名誉博士授与。2006-2016年 東北芸術工科大学副学長。2012-2016年京都造形芸術大学副学長。
代表作に「メガ・デス」など。また、長崎で被爆した柿の木2世を世界の子どもたちに育ててもらう活動、「時の蘇生・柿の木プロジェクト」も推進している。

「絵画検討会2016-記録と考察、はじめの発言」

2018年9月11日現在。新刊売り切れ、在庫僅少。
小社からの発送は、書店からの返送品(やや傷、汚れあり)のため、定価より100円引きの1200円+税にて販売いたします。
ご購入ご希望の方はあらかじめご了承ください。

呼びかけ人:高田マル
出品作家:TYM344、高田マル、林香苗武、ムカイヤマ達也、本山ゆかり
寄稿ほか:石山律、内田百合香、浦野玄馬、黒瀬陽平、沢山遼、gnck、Taxxaka、千葉成夫、土屋誠一、都築潤、野田尚稔、平間貴大

仕様:並製本、ペーパーバック

サイズ:四六判
ページ:164ページ(カラー64ページ)
デザイン:小林すみれ

ISBN:978-4-908122-06-4
2017年3月3日発行


今、絵画を描く意味とは何か?
総勢17名の作家・批評家による最新の絵画論!

これは、グループの結成ではありません。
絵画存在に「描きながら」アプローチしている人たちに声をかけました。
個々の発表にご期待ください。
                       呼びかけ人:高田マル

2016年夏、東京都豊島区のTURNER GALLERYにて、呼びかけ人の高田マルによって企画されたグループ展「絵画検討会2016」が開催されました。
展覧会名にあるとおり、同展は「絵画」をテーマとし、5人の作家がそれぞれの「絵画」へのアプローチを提示。会期中にはギャラリー内や出品作家のアトリエなどでトークイベントなどが行われ、多くの議論を呼びました。そこには、絵画への根強いニーズ、そして近年再び注目を集めるモダニズムへの関心などが背景にあるのでしょう。会期終了後も、美術誌へのレビュー掲載やSNS上における反響などを呼び、結果として、多くの作家、批評家を巻き込みながら展開してきました。
本書は、「絵画検討会2016」の記録誌の位置づけから、作品図版を豊富に収録(全作品リスト含む)。加えて、作家の発言を収録することにも力を入れています。「絵画検討会2016」では、展覧会のドキュメントを残すという意図から、会期中のトークのみならず、企画段階でのミーティング記録のすべてが文字化され、記録されてきました。本書では、そうした厖大な情報の中から、作家の発言を編み直し、また作家による書き下ろしを加えることで、5人の作家がどのようなスタンスで「絵画」に取り組んでいるのかを伝えます。
また、寄稿者による論考やトークや対話も読みどころのひとつです。テーマは、「絵画検討会について」「展覧会評」「絵画論」と多様で、現在の絵画を考察する意味でも必読の論考が揃いました。
現代における絵画の意味をいま一度、考え直し、深めていく「はじめての発言」として、広く読んでもらいたい1冊です。


INDEX

はじめに

作品
TYM344|高田マル|林香苗武|ムカイヤマ達也|本山ゆかり
3階展示風景|展示作品一覧

寄稿
Ⅰ. 絵画検討会とは?
Taxxaka|なぜ、私たちは「絵画」を「検討」せざるを得ないのか
野田尚稔|もう一度見るために ― 絵画を検討する
gnck|芸術の公共圏
浦野玄馬|絵画の検討の検討について、あるいはプロジェクトされる絵画

Ⅱ. 作品評
千葉成夫|絵画への入り方―「 絵画検討会2016」展を見て

Ⅲ. 絵画論
土屋誠一|「デスクトップ型絵画」理論構築のための序論
都築 潤|「絵一般」について

「絵画検討会2016」に関する出来事一覧
石山 律 |(零れ落ちないための)覚え書き

発言
TYM344|高田マル|林香苗武|ムカイヤマ達也|本山ゆかり
追加質問とその回答

反応
Talk 都築潤×高田マル|描き(絵)とは?
Talk 内田百合香×林香苗武|絵画
Dialogue 黒瀬陽平×TYM344|絵画検討会とフォーマリズム絵画
Review 沢山 遼|構造と貧困

プロフィール
あとがき


[関連情報]
高田マル個展
「消去済み」
会期:2017年3/4(土)~3/12(日)
会場:spiid 東京都墨田区京島3-30-6

「定期報告 第0回すでにあるもの」
会期:3/4(土)~3/12(日)
会場:spiid 東京都墨田区京島3-30-6
http://spiiiiiiiiiid.tumblr.com/
※会場にて先行発売を行います。

「ちよめがね」アーカイブ公開

10月21日(金)の21時〜23時、インターネットTV「ホウドウキョク」にて『金子國義スタイブルック』を取り上げていただきました。

番組名:『ホウドウキョクxFLAG9』
コーナー名:ちよめがね
出演:森下知哉・阿部知代
日時:10/21(金)21〜23時
アーカイブURL:https://www.houdoukyoku.jp/archives/0009/chapters/12263

同書が紹介されるのは、番組のエンディング「ちよめがね」のコーナーです。アナウンサーの阿部知代さんが、最近、実際に見た美術や演劇のなかで、興味をもったものを自由に取り上げる企画で、まさに「阿部知代さんのおめがねにかなう」ものだけがピックアップされます。

聞けば、阿部知代さん、高校生の頃からの大の金子國義ファンだということです。今回の番組用の資料づくりのやりとりの中でも、言葉の端々に思い入れを強く感じました。美術とは熱量です。熱のない人と仕事をするのは嫌なのですが、阿部知代さんはテレビ業界のなかでも数少ない熱源の一人です。

かつて、フジテレビに「テレビ美術館」(1970-2005年)という番組がありました。多くの美術番組が大型美術展を扱うなか、「テレビ美術館」は現代美術を扱っていました。しかも、朝の5時30分という時間でした。視聴率を重要視するテレビにおける現代美術の扱いはそんなものです。でも、阿部さんはきちんと現場を取材し、インタビューをとって、ご自身の言葉で現代美術を伝えるという姿勢を貫きました。そして、多くの美術作家の共感を得ました。今でも作家に阿部知代ファンはたくさんいると思います。とりわけ、スタジオ食堂や昭和40年会の作家には同世代ということでシンパシーが強かったのだと思います。スタ食のアトリエにはしょっちゅう遊びに行っていたという話を聞いたこともあります。

僕が初めて阿部さんとお会いしたのは、水戸芸術館の「カフェイン水戸」(2004年)でした。「テレビ美術館」の取材でいらしていたようです。その後、雑誌で現代美術の特集をすることになり、インタビューをさせてもらいました。次に取材をしたのは、「テレビ美術館」が終了するということを聞いて駆け付けた2005年です。手元にコピーがあったので、アップしておきます。スタジオ食堂からは須田悦弘さん、中村哲也さん、中山ダイスケさん、昭和40年会からは小沢剛さん、松蔭浩之さん、キュレーターからは南條史生さん(森美術館副館長、当時)、逢坂恵理子さん(水戸芸術館現代美術センター芸術監督)が収録に参加されています。

abechiyosan

テレビ美術館が終了したのち、「art lover」という番組が生まれました。こちらも美術館からギャラリーまで丹念に現代美術を追いかけるとてもいい番組でしたが、2010年に終了。その後、阿部知代さんはニューヨークに出向となり、数年間、日本の現代美術の最前線から少し離れたかたちとなったのです。

そして、2015年に帰国。再び精力的に美術館、ギャラリーを回り、現代美術を楽しんでいるようです。インターネットTVにメデイアは移りましたが、その方が制約なく自由に番組をつくれるのではないでしょうか。

「ホウドウキョク」、チェックしていきたいと思います。

おまけ)
ごく最近、放送になったものですが、「BRUTUS」(11/1)の特集「現代アートと暮らしたい」の特集にあわせ、フクヘンの鈴木芳雄さん、雑誌でも紹介されているコレクターで弁護士の小松準也さんが出演されています。おもしろいので、よかったらどうぞ。
http://www.houdoukyoku.jp/pc/archive_play/00092016101401/2/

 

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