レポート|第43回 東京五美術大学連合卒業・修了制作展 シンポジウム「外から見た五美大展」

Text : 平澤 碧(ART DIVERインターン)

 

2020年2月22日、第43回東京五美術大学連合卒業・修了制作展が開催中の国立新美術館にて、シンポジウム「外から見た五美大展」が開催された。本年度五美大展の幹事校を務めた女子美術大学で教鞭をとる杉田敦がモデレーターを担当し、黒瀬陽平、田村かのこ、成相肇、長谷川新、藪前知子の5名がパネリストとして登壇した。
シンポジウム「外から見た五美大展」は、五美大以外を出自とする美術関係者に登壇を依頼し、外から五美大展を見ることで、今後の美術業界にどのような影響をあたえられるかを再考すべく開催されたという。シンポジウムは、各パネリストが発言をリレーした後、議論へと移行する進行であったが、冒頭部分で、「現状のやり方であれば今年度でやめるべき、来年以降も続けるのであれば大幅な改良が必要」との結論めいた論点が示され、そこから議論が深まることはなかった。質疑応答を別室対応にしてまで捻出した、2時間という時間設定に見合わない、冗長なシンポジウムと感じた。
シンポジウムがこのような展開となった時点で、議論を活性化し、五美大展をどうするのか、具体的な対処へと話を進めるために、多く来場していた出展者の学生、関係者席にいた五美大展関係者の美大教員に意見を募るなどといった、臨機応変な対応をとる必要があったように感じてならない。仮に、本シンポジウムの実行委員会の面々が、本当に五美大展の今後を考えていたのであれば、こうした対応を取ることは、至極真っ当のことではないだろうか。パネリストは、五美大展関係者ではない。本シンポジウムでなされた指摘や提案に応え、動かなくてはならないのは五美大関係者である美大教員だ。藪前から、「私たちをガス抜きとして使わないで欲しい」との発言があったが、本シンポジウムを見た限りでは、運営側の五美大展改善への意志は感じられず、今の形式での五美大展が今後とも、ずるずると続いていくように感じてならない。
以降、本シンポジウムで指摘された五美大展の問題点を記していきたい。

空間的な制約
展覧会は、その字義通り、作品を観客に見せる/見てもらう場である。しかしながら、五美大展は、展示室のキャパシティを超える大量の作品が展覧されるが故に、展覧会として機能しきれていないという。
田村は、無数の作品が所狭しと並ぶ展示室を、「見本市のようだ」と称し、「この展示会場では、自分の作品をどう見せるかを考えることもできない」と述べた。また、成相は、「仮に五美大展の展示作りを頼まれたとしても、この物量では、綺麗な展示へと仕上げることはできないですね」と述べ、選抜展へと切り替え、しっかりとキュレーションを施すことを提案した。
黒瀬は、2つの出展作品を事例に挙げ、学内展と五美大展での展示構成の差異から五美大展の問題点を指摘した。「卒展ではレベルが高かった作品も、五美大展では作品の良さが殺されていた。空間的な制約の多い五美大展では、学内展のようなアウトプットは不可能であり、作品を断片的に見せざるをえない。これでは、学生にとって良いことはないでしょう。なんとなく続いているのであれば、やめた方が良い」(黒瀬)。
もちろん、今回の登壇者のほとんどがキュレーターであったことが、こうした意見に集約されていったことは指摘しておいていいだろう。この点において多様な見解を議論するためには、アーティストなど別の立場の登壇者が参加していれば、違った展開もあったのかもしれない。

不明瞭な目的
五美大展には、各大学の構内で開催される卒業・修了展で展覧された作品が、再度、展覧される。杉田によれば、「本当にやりたい展示は学内展で行う、それが一般的な理解」であるという。では、五美大展は何を目的として開催されるのであろうか。
藪前は、地理的に遠い五美大が一堂に会することにはポテンシャルがあるとした上で、誰のために開催されているのか曖昧であることを指摘した。「五美大展は誰のためにやっているのか。美大を志望する高校生のため、親族のためか。または、ギャラリストなど、卒業後の活動につながる美術関係者に向けてか。曖昧になっている」(藪前)。
成相は、「キャプションには、素材表記が無い一方で、先生の名前が記されている。五美大展は、先生の成果発表であるということだ。同時に、これは大学のプロモーションでもある」と述べ、五美大展には各大学間の政治が織り込まれていることを指摘した。
では、出展者である学生にとって、五美大展はいかなる場であるのだろうか。
黒瀬は、「五美大展は、修学旅行みたいな感じ」と称した出展経験者の言葉に触れ、「限界まで卒業制作を頑張った後に、五美大展へ出展するモチベーションは無いのでは」と述べた。

責任者の不在
シンポジウム中、黒瀬が幾度となく指摘していた「責任者の不在」こそが、五美大展に底流する一番の問題であろう。
「幹事校が毎年変わるので、責任者も毎回変わり、そのまま何十年も責任を取らないまま続いてきた。改善策を練ったところで、渡す相手がいない。責任を持って受け入れる主体がいない。いるのは五美大展という亡霊のみ」(黒瀬)
本シンポジウムを通して、五美大展に変革を迫ったとしても、変革を行う主体がいないというわけだ。そして、これは同時に、展覧会に責任を持つ主体の不在でもある。
「展示の責任者は誰か。それは教員だ。僕も小さな現代美術の学校をやっていて、毎年、成果発表をしているが、それが面白くなかったら僕の責任であって、生徒のせいではない。しかし、美大は卒展が面白くなかったら、それは生徒の責任だと言う。才能ある人材が、毎年そろうことはないとは思うが、それをリカバーし、面白い展示に仕上げるのが教員の務めではないだろうか」(黒瀬)

追記
SNSを見る限り、シンポジウムの打ち上げにて、五美大展シンポジウム実行委員会とパネリストとの間で、具体的な改善案についての話し合いが行われたようである。五美大展改善への兆しが見えたところで、シンポジウム中の黒瀬の発言を振り返りたい。
「学生から、五美大展への異議申し立てがなかったことに危機感を感じている。五美大展で不利益を被っているのは学生、作品で抵抗すべきだ」(黒瀬)。
美術、とりわけ近代以降のそれは、既存の価値観や体制を打破する営みでもあったはずだ。来年度以降も今のかたちでの五美大展が続いた場合、または、改善されても尚、学生が不利益を被ることになった場合には、学生からアクションが起こることに期待したい。そのための思考材料として、本レポートが役立てば幸いである。

 

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