編集雑記|あとからつながるものについて―『この星の絵の具』の編集を終えて

『この星の絵の具』という小説の構想について、小林正人さんから初めて聞いたのは、2016年のことだった。

フリーになって2年ほどが経った頃で、時間に余裕があった私はSNSでの告知を見つけ、ヴァンジ彫刻庭園美術館で開催されるグループ展「生きとし生けるもの」展のプレスツアーに参加した。正人さんはグループ展の出品作家のひとりとして会場に来ていた。ギャラリーツアーでは、多くのプレス関係者に囲まれていて、私はなかなか近づくことができなかった。

会場で話しかけることをあきらめ、ミュージアムショップをふらついていると、同じように本を熱心に見ている正人さんの姿が目に入った。以前、雑誌の仕事で原稿をお願いしたことがあったので、話しかけたところ、こちらを覚えていたのには驚いた。詳しい会話は思い出せない。ただ、雑誌社を辞め、ひとりで出版社を立ち上げたことを話したのだと思う。すると正人さんから、「話したいことがあるんだ。少し時間ある?」と、美術館のカフェに誘われた。

コーヒーを飲みながら聞いたのは、のちに『この星の絵の具』上巻に描かれる、「せんせい」との出会い、絵を描くことへ向かう原初的な体験談だった。驚くべきエピソードを聞いた私は、後日、詳細について話し合うため東京で会う約束をとりつけた。

そして、東京での打ち合わせ。A5サイズにプリントアウトされ、本のかたちに束ねられた原稿を受け取った。まさかこの小説が、その後10年という時間をかけ、3部作として育っていくことになるとは、そのときはまだ思っていなかった。
断続的ではあれ、10年にわたり、一人の作家とともに編集作業を続けられたことは、編集者冥利に尽きる経験だと思う。「画家の小説」をつくるうえで、編集にまつわるエピソードは数えきれないほどあるが、ここでは、そのなかでも特に印象に残っている場面をひとつだけ書いてみたい。

それは2020年、『この星の絵の具』中巻の印刷立ち会いのときだった。印刷所へ向かう待ち合わせのため、私たちは埼玉県のある駅に降り立った。ロータリーへ向かう階段を下っていくと、そこには鮮やかに黄色く色づいたイチョウが立っていた。秋の光を受けた葉は、不自然なほど明るく輝いていた。
正人さんはその木の前で黄色い葉を見上げ、しばらく立ち止まっていた。特にこれといった出来事があったわけではない。ただ、時間の感覚が薄まったような不思議な光景だったことが強く心に刻まれた。

そんなことを忘れていた2025年、『この星の絵の具』下巻の編集が進み、カラー図版の色校正へと進んできたときのことだ。下巻の主要な舞台となるテンスタコンストハルへと続く道を、緑のダウンジャケットを着た正人さんが静かに歩いている。ただそれだけの写真だった。その写真の色校正を見て、正人さんは「この黄色をもっと鮮やかにしたいんだ」と強く言った。
そのときだった。数年前、埼玉の駅前で見たイチョウの光景が、不意に目の前によみがえった。思い出した、という感じではなかった。むしろ、別々だったはずの時間が、あとから静かにつながってしまった。そんな感覚だった。

この「つながる」という感覚こそが、私が編集を通じて、この小説の核だと感じているところである。「つながる」という言葉から、まず思い浮かぶのは伏線の概念だろう。物語において提示された要素が、後半で回収され、意味を持つ。いわゆる「チェーホフの銃」のように、舞台の上に置かれた銃は、いつか撃たれなければならない、という考え方である。
しかし、正人さんの小説は、そうした意味での伏線によってつくられている作品ではない。伏線とは違う何かが小説の動力になっている。これは編集作業の中で、何度も確認してきたことでもある。たとえば私は編集者として、「この描写は読者には意味が伝わらないのではないか」「後々説明されないのであれば、削ったほうがよいのではないか」といった指摘をなんどかおこなってきた。
もちろん、正人さんは柔軟に修正を受け入れてくれることもある。しかし一方で、「そこはわからなくていい」と、はっきり言うこともあった。

「未来に、誰か一人でもわかってくれればいい。これは芸術なんだ」と。

正確な言葉は違うかもしれない。しかし、編集のやり取りのなかで、正人さんは繰り返しそのようなことを語っていたように思う。

私は長いあいだ、この「わからなくていい」という感覚を、どう言葉にすればよいのかわからなかった。しかしあるとき、それは伏線ではなく、「象徴」と呼ぶべきものなのではないかと思い至った。
象徴は、記号のように意味が固定されているものではない。それは読む人によって異なる意味を帯び、時には何年も経ってから、突然つながり始める。理解されるためというより、残り続けるために存在している。

この小説は、そうした象徴に満ちている。

その一例として、「鳩」というモチーフを挙げてみたい。
『この星の絵の具』上巻では、国立が重要な舞台となっている。そのアトリエの1階にあったのが、「ハトヤ食堂」だった。店のおじさん、おばさんとのやりとりは、この作品の中でもとりわけ心に残る場面のひとつである。さらに、そのすぐ近くには「鳩の湯」という銭湯がある。上巻23ページでは、こう書かれている。

「俺がタバコを買う自販機はあそこ。その横の通りの右側の花屋さんの裏に「鳩の湯」っていう風呂屋があって。そう、ここも“ハト”なんだよな。」

小林正人『この星の絵の具[上]一橋大学の木の下で』(2018年、アートダイバー、p.23)

読み進めると、つい通り過ぎてしまう一節である。しかし3巻を通して今振り返ると、正人さん自身が、この「鳩」という反復を非常に大切に扱っていたことがわかる。鳩は中巻にも現れる。中巻のサブタイトルは『ダーフハース通り52』。ダーフハースはオランダ語で「鳩小屋」を意味する言葉であり、ここでもまた、鳩というイメージが静かに反復されている。

さらに下巻では、テキストベースのアーティスト、カール・ホルムクヴィストが象徴主義風のシールを正人さんに見せる場面がある。その中で正人さんが選ぶのは、葉っぱをくわえた黒い鳩のシールだった。正人さんは、そのシールを一枚剥がし、自分の手の甲に貼る(その後、このシールは静香さんによってある場所に貼られるのだが、それは本書で!)。

重要なのは、ここで鳩が一つの意味へと回収されていないことである。ここでの鳩は記号ではない。平和や自由といった単純な象徴として置かれているのではなく、場面ごとに異なる気配をまといながら現れ続ける。
だからこそ、それらは伏線とは少し違うかたちで読者の中に残り、ある時ふいに、別々だった時間や場面を静かにつなぎ始めるのである。
思えば、『この星の絵の具』という小説そのものが、そのような作品だったのかもしれない。理解するというより、あとからつながってしまうのだ。

それは因果というよりも、配置と呼びたくなる。出来事や名前、反復されるイメージは、理由によって結ばれるのではなく、あらかじめそこにあったかのように静かに呼応しあう。読者はそれを理解するというより、遅れて気づくことになる。

こうしたとき象徴は、物語を閉じるための装置ではなく、むしろ開き続けるための契機として働いている。本作は、読み終えたあとにもなお、別の時間や記憶と結びつきながら、ゆっくりと意味を変えていく。

10年という時間をかけて、この小説を編集しながら、私はずっとその不思議な感覚の中にいたように思う。

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小林正人『この星の絵の具[上]一橋大学の木の下で』
小林正人『この星の絵の具[中]ダーフハース通り52』
小林正人『この星の絵の具[下]新世界』
小林正人『この星の絵の具』上中下3巻セット

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