松本陽子《宵の明星を見た日》を読む——新見隆『共感覚への旅』が論じた「宇宙エーテル体」

2026年5月23日から7月12日まで、府中市美術館で「松本陽子 宵の明星を見た日」展が開催されている。画家・松本陽子(1936-)にとって、初の美術館における大規模個展。1950年代末の初期作から、代名詞となった1990年代の「ピンク」のアクリル画、そして最新の油彩まで、その画業の全貌に触れられる稀有な機会だ。

この機会に、もうひとつ。展覧会で松本陽子の絵と出会ったあと、——あるいは出会う前に——ぜひ手に取っていただきたい一冊がある。

キュレーター・新見隆による『共感覚への旅——モダニズム・同時代論』(アートダイバー、2024年、392頁)。本書の第2章には、松本陽子論「『宇宙エーテル体』——松本陽子の黙示録的空間」が収められている。

「宇宙エーテル体」という鍵概念

「宇宙エーテル体」——この言葉は、シュタイナー神秘学の解釈者・高橋巖が用いた語に由来する。あらゆる物質的なものと霊的なもの、見えるものと見えざるものを繋ぐ、たったひとつの媒介としての概念だ。新見隆は、2003年にギャラリーαMで開催された松本陽子展に寄せたテキスト「宇宙エーテル体——松本陽子の孤独に」に用いたほか、この言葉を松本陽子の絵画を語る鍵概念として磨き続けてきた。

新見が松本陽子の絵画に見出したのは、まさに「媒介」としての働きだった。書中、新見はこう書いている。

「それはむろん、描写ではない、描かれ、あるいは絵画ぜんたいで、まさに描かれようとされているものは、見える自然ではなく、万物を生み育てるエネルギー源としての、宇宙エーテル体であったのだ。」(『共感覚への旅——モダニズム・同時代論』p.220)

1980年代半ばから松本陽子の絵を見続けてきた新見が、あの「渦巻く、気の坩過のような薄紅いろの絵画」と長く対話してきた末に辿り着いた言葉。展覧会タイトル「宵の明星を見た日」と、この「宇宙エーテル体」という鍵概念が静かに響き合うさまを、本書を読みながら味わっていただけたらと思う。

ショパン、シュタイナー、そして「天の蛇」

松本陽子論はわずか14ページの論考でありながら、その射程は驚くほど広い。冒頭に置かれるのは、音楽評論家・遠山一行のショパン論からの引用だ。新見はショパンと松本陽子を重ね合わせる。

「そしてショパンの音楽の、王者の孤独が、松本陽子のエーテル体には相応しいと、私には思えて仕方がない。」(同上、pp.220-221)

そして論考の中盤には、南島先島群に伝わる「天の蛇——テンヌパウ」という、虹を意味する神話的存在が現れる。松本陽子の近作ドローイングを前にして、新見は「舞い、這う、天の蛇」のイメージを見る。シュタイナーの神秘学、ショパンの王者の孤独、そして南島の虹の神話——これらが新見の批評の中で、松本陽子の絵画を語るための言葉として呼び出されてくる。

これは、いわゆる「美術批評」ではなく、文学のかたちをとった批評とも言える。新見自身、近年は「自分のやっていることは文学であって、それで構わない」と書いている。事実、本論考には新見自身による散文詩「天の蛇——テンヌパウ」が挿入されてもいる。そうしたかたちでしか捉えられない大きさを、松本陽子の絵画は持っているということだろう。

具体的な作品への言及

論じられている作品も具体的だ。1991年の《黒い岩V》、2010年の《生命体について》、2021年の《熱帯》——いずれも、松本陽子の画業を象徴する重要な作品である。とりわけ《熱帯》について、新見はこう書いている。

「絵画は空間であるのは、当たり前だが、『それが生き物のように、動いて、迫って来る』と言っておられるのも、僥倖に感じたものであった。」(同上、p.228)

松本陽子の大作の前に立ったとき——絵が動いて、迫ってくる感覚を覚えたなら、それはきっと、新見が「宇宙エーテル体」と呼んだものに触れた瞬間だ。

音と絵画を「共感覚」で結ぶ大著

『共感覚への旅』は、40年以上にわたって国内外のアートシーンで活躍してきたキュレーター・新見隆による、音楽と美術を「共感覚」で結ぶ畢生(ひっせい)の一書である。

第1章「故郷喪失の旅、モダン編」では、ロスコとワーグナー、アルバースとスクリャービン、ルオーとメシアン、マレーヴィッチとプロコフィエフなど、20世紀美術の巨匠たちと、新見自身が愛聴するクラシック音楽との深い共鳴が「共感覚」をもって語られる。続く第2章「共感覚への旅——同時代作家論」では、松本陽子のほか、横尾龍彦、関根直子、真島直子、内田あぐり、藤本由紀夫など19名の同時代作家が、それぞれに親和する音楽家とともに論じられていく。

松本陽子展の余韻のなかで、ぜひページを開いてみてほしい。展覧会場で立ち上がった「眩暈」の感覚が、新見の言葉によってもう一度、別のかたちで蘇るはずだ。

BOOK

共感覚への旅——モダニズム・同時代論

新見隆 著

A5判 / 392頁 / 2024年 / アートダイバー

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関連情報

松本陽子展「宵の明星を見た日」
会期:2026年5月23日(土)—7月12日(日)
会場:府中市美術館
▶ 展覧会公式ページ

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