本の表紙になった絵を、美術館で鑑賞する。──小林正人《絵画=空》とMOMATコレクション展

本の表紙になったあの絵が、今、東京国立近代美術館の壁にかかっている。
それは、小林正人《絵画=空》(1985–86年)。
縦2メートル、横3メートルほどの大作を、竹橋で実際に見ることができる。

小林正人《絵画=空》
制作年 1985–86年
材質・技法 油彩、キャンバス
寸法 195×291 cm
所蔵 東京国立近代美術館

一枚の絵が、ここにある

東京国立近代美術館の所蔵作品展 MOMATコレクション(2026年年5月26日から9月13日まで)に、小林正人の《絵画=空》がかかっている。

常設展は、企画展のような喧騒がない。作品は、ただそこにある。訪れる人を選ばず、ある日の午後、何となく立ち寄った人の前にも、この縦2メートル・横3メートルの空は現れる。小林正人が1年以上をかけて描き上げたこの絵は、今もそうやって誰かの目の前に、不意打ちのように出現する。

アートダイバーが刊行した自伝的小説三部作『この星の絵の具』の上巻の表紙になった絵、と書けば、本をすでに読んだ人には「あの絵が」という感覚になるかもしれない。だがそれより先に言いたいのは、この絵がいま実際に見られる状態にある、ということだ。


1985年、画家は空を描こうとしていた

小林正人は1984年に東京藝術大学を卒業し、東京都国立市にアトリエを借りて画家生活を始めた。自伝的小説の上巻、記念すべき冒頭はこんな一節から始まる。

空の画(え)が描きたくて、藝大を卒業した翌年、国立の旭通りにあるビルの四階に部屋を借りたんだ。それまで色のついた画を描いたことはなかった。色と呼べるような絵の具も持っていなかった。

小林正人『この星の絵の具[上]一橋大学の木下で』2018年、アートダイバー、p.10

この「空の画」こそが、のちに《絵画=空》となる作品である。
小説のなかで小林は、何もないアトリエに置かれた2×3メートルの白いキャンバスに向かって空を描こうとする。しかし、頭の中にある完璧に美しい空と、目の前の300号のキャンバスと絵具のチューブとがなかなか一致しない。小説を読めば、その苦悩や試行錯誤が、画家の内省的な言葉とともに伝わってくる。

画には枠があるけど空に枠はない。どこまでも広がる自由な空と四角い絵画、でもこの二つはイコールで結ばれるはずだという確信があった。
空の画は頭の中ではほとんど完成していたんだ。パーフェクトと言っていいくらいに……。頭の中では画もキャンバスも物じゃないからさ。頭の中に真っ白い宙があって、そこに青い空の画が掛かってるんだ。雲は光のリングで、キャンバスはすげえいい四角。それは開かれている四角……ってか〝約〟四角? そう、約四角だ! そういう青い空の画が真っ白い宙のような壁にスッと掛かってんだよ。あとは手を使って、その画を頭の外に出すだけだ。
もらった!と思って頭ん中で完成してる空の画を巻き戻し、遡って始まりの時点に行こうとすんだけど、なぜか始まりに四角く張られたキャンバスが出てこないんだ……。頭の中の空の画は、普通にオイル・オン・キャンバスの体なんだよ。大きさは三〇〇号くらいに見える。だから三〇〇号のぴんと張ったキャンバスを用意したんだ。なのにどうしても今、アトリエで俺の眼の前にある白い三〇〇号のキャンバスと頭の中にある青い空の画がひとつにならない、ひとつに重ならない。一本の時空間でつながらないんだ。

同上、p.12–13

完成した作品につけたタイトルは《絵画=空》。ここに「=」が入っていることは、象徴的だ。絵画「の」空でも、絵画「に描かれた」空でもなく、絵画「=」空——つまり絵画と空が等号で結ばれている。
つまり、小林正人の絵画観の根幹には、「絵画とは何か」という問いへの存在論的なアプローチがある。彼は、白いキャンバスを木枠に張ってから描き始めることを「遅すぎる」と感じていた。絵の具をチューブから直接手に取り、キャンバスの布地を片手で支えながら擦り込むようにして色を載せ、同時に木枠に張りながら絵画を立ち上げる——この独自の制作スタイルは、「イメージと空間を同時に誕生させる」ことを目指したものだった。

絵画と空が等号で結ばれるとき、私たちが見ているのは「空を描いた絵」ではなく、「それ自体が空である絵画」だということになる。白みがかった青、大気のようなひろがり、縦横2〜3メートルという物理的な大きさ——実物を前にすると、タイトルの意味が身体でわかる、という体験がある。


白い壁との出会い

完成した《絵画=空》が初めて展示されたのは、銀座四丁目にあった佐谷画廊だった。1986年のことだ。

小林自身は当初、この絵を「どこかで発表する」とは思っていなかったという。ただ、「その絵が周囲の白い空間によって初めて成立するっていうビジョンは頭の中にあった」と語る。白くきれいな壁に絵がかかり、「せんせい」が見に来てくれる——そういうイメージが、実現される場所として佐谷画廊が現れた。

空の画は一年かかってスパッと未完成で完成した。未完成っていうのは画の周りの白い壁が必要という意味で! 画だけ取ったらなにかが欠けている。欠けているのは周りの白い空間なんだ。白い壁が必要な画、それが《絵画=空》。俺は二十九だった。

同上、p.20

佐谷画廊の専務を務めていた佐谷周吾は、小林の初個展を見て、小林の才能に惚れ込んだ。そして、父が経営する佐谷周吾画廊での個展を開くことになる。そうして、《絵画=空》は画廊のホワイトキューブ展示されることになった。その後、《絵画=空》は、1989年に東京国立近代美術館で開催された「色彩とモノクローム」展に選出され、1991年に美術館が購入することとなる。それから、この絵は国立美術館の所蔵品として存在し続けている。


表紙の絵を、美術館で見る

『この星の絵の具』上巻の表紙には、《絵画=空》が使われている。本を手にした人は、この青白い空のひろがりをすでに知っている。

東京国立近代美術館の常設展示室で実物と対面するとき、何が起きるだろう。本で見ていた画像は、縦20センチほどのコンパクトな書影だ。それが突然、縦2メートル・横3メートルの実物として目の前に現れる。スケールが変わると、絵の見え方は根本から変わる。書影で感じていた静けさが、実物ではもっと大きな「気圧」のような何かになる可能性がある。

逆もある。美術館でこの作品と出会い、「この絵はどこかで見たことがある」と感じた人が、後から本の存在を知ることもあるだろう。常設展に通う人の中に、小林正人の名前をここで初めて知る人もいる。

表紙の絵が美術館にある、という事実は、本と絵画のあいだに往復の動線をつくる。どちらから入ってもいい。

【EXHIBITION INFORMATION】

東京国立近代美術館 所蔵品展 MOMAT コレクション

会期
2026年5月26日(火)〜 9月13日(日)
休館日
月曜日(祝日の場合は翌火曜日)
開館時間
10:00〜17:00(金・土は〜20:00)
会場
東京国立近代美術館 4〜2階展示室
アクセス
東京メトロ竹橋駅 1b出口 徒歩3分
入館料
一般500円 ほか(企画展観覧券で入場可)

小林正人の、その後

《絵画=空》の完成後、小林正人の仕事は止まることなく続いた。1996年にサンパウロ・ビエンナーレの日本代表として選ばれたほか、翌1997年、ベルギーのキュレーター、ヤン・フートに招かれてゲントに渡欧し、2006年に帰国するまでおよそ10年をヨーロッパの地で過ごした。

帰国後は広島・鞆の浦を拠点に制作を続けている。

「白いキャンバスを木枠に張ってから描き始めるのでは遅すぎる」という言葉は、彼が若い頃から変わらず持ち続けた問いから来ている。キャンバスを張りながら手で描くという制作スタイルは、今も変わっていない。《絵画=空》は、そうした40年間の始まりにある作品だ。

《絵画=空》から始まった自伝的小説『この星の絵の具』は、下巻『新世界』を持って最終章となったが、芸術家としての歩みは、これからも続いてく。その原点とも言える作品を、美術館で体感してほしい。


こんな記事も読まれてます

目次