詩人と画家が喫茶店で交わった——言葉と絵が混ざり合った1950–60年代の高知
「セザンヌ」、「ニヒル」、「ショパン」——。1950年代後半の高知市に、こんな名前の喫茶店が軒を連ねていた。
とりわけ高知市追手筋にあった喫茶店「エリーゼ」の2階は特別な場所だった(ページ上部の写真は「エリーゼ」店内風景。『高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治』p.39より)。詩人の坂本稔は後年、「当時の文学青年や美術学生たちの巣」になっていたと振り返っている。ここに詩人と画家が集い、言葉と絵が混ざり合っていた。
こうした喫茶店での交流が、1960年代の前衛美術運動を陰で支えた。
前衛詩と前衛美術——ふたつの運動が重なる
1950年代の高知では、美術だけでなく詩の世界でも前衛運動が盛り上がっていた。その中心にいた詩人・西一知は、1955年から北園克衛が主宰する詩誌『VOU』に参加。東京の前衛詩壇ともつながっていた。
詩人たちは画家とも親しかった。西一知は「西卓」のペンネームで、1961年の浜口富治の村松画廊個展の配布物に短文を寄せた。その裏面には、浜口と幼少時から付き合いのある詩人・岡崎功の寄稿も印刷されていた。個展のパンフレットに詩人が文章を寄せる——ジャンルを横断した交流が、ごく自然な形で行われていた。
詩誌が美術批評の場になった——『POP』と『MES』
坂本稔や岡崎功ら高知の詩人たちが発行した詩の同人誌が、『POP』(1957–58年)とその後継誌『MES』(1958–71年)だ。
この2誌は詩だけを掲載したのではなかった。高﨑元尚の写真画像や展覧会評・作品評が散発的に掲載され、特に『MES』では高﨑を中心とした地元作家の作品画像が表紙を飾った。1971年まで14年間発行されたこれらの詩誌は、ローカルな美術批評の言説の場としても機能していた。
詩誌
『POP』
1957–1958年。1〜4号発行。坂本稔ら高知の詩人が主体。高﨑の写真画像も掲載。
詩誌
『MES』
1958–1971年。33号まで発行。表紙に地元作家の作品画像。ローカルな美術批評の場にもなった。
「理由のないグループ展」——詩と絵が同じ壁に並んだ夜
1961年12月、喫茶店「茶房リオ」で一風変わった展覧会が開かれた。「理由のないグループ展」——浜口ら新象会高知グループと、岡崎ら『MES』同人との合同展だ。画家と詩人が同じ展示空間に作品を並べた。
この展覧会の名前「理由のない」は、同年8月に行われた0グループのパフォーマンス「理由なくデモして街を歩く」と呼応している。詩人も画家も「理由のなさ」を共有していた。
もっとも、この合同展が完全な成功だったとはいえない。岡崎功は展覧会について高知新聞紙上でこう書いた。
「ここでは詩と形象とは決して互いに捕捉しあうようなものではないし、またむろんいずれが主眼であるなどといえるようなありきたりの立場でいっしょに仕事ができたわけではない」
岡崎功「理由のないグループ展 意識のない二重奏」『高知新聞』1961年12月4日
詩と絵がひとつになったわけではない。それでも、ジャンルを越えて同じ場に立った——その事実が重要だった。
詩人の詩に挿絵を描き、詩集の装丁を手がける
浜口と詩人たちの交流は、展覧会にとどまらなかった。浜口が1962年に制作・郵送した《見えない絵》の封筒の中には、『MES』に掲載された岡崎功の詩に浜口が付した挿絵が印刷されていた。詩人の言葉と画家のドローイングが、郵便という形で受け手の手元に届いた。
また、詩人・岡本弘が『MES』に掲載した詩のページを切り取り、浜口の作品に貼り付けたコラボレーション作品《お嬢さん》(1961年)も生まれた。言葉の断片が絵の一部になった。
岡崎功が1963年に刊行した詩集『ミノトオルの指環』では、浜口が装丁を担当した。こちらは好評を博したという。合同展とは異なり、詩と絵が自然に溶け合った仕事だった。
交流が前衛を育てた
高知の前衛美術運動が生まれた背景には、こうしたジャンル横断的な交流が、小さいスケールながらも継続的に起きていたことがある。詩人が画家の個展に文章を寄せ、詩誌が美術評を載せ、合同展で同じ壁に作品を並べる。
浜口の架空の展覧会案内状《絵のない(意識の)画展》(1961年)に「ノア」「海」「舟板」「戦争」という言葉が散りばめられたのも、詩人たちとの対話なくしては生まれなかったかもしれない。言葉と絵の境目が曖昧な場所で、高知の前衛は育っていた。
この記事は『高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治』(高知県立美術館監修、ART DIVER、¥2,970、2026年3月刊行)の内容をもとに作成しました。本書では詩誌『POP』『MES』の全33冊の表紙図版も収録しています。
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