東京都庭園美術館の建物をつくった朝香宮邸とは?
この記事は、東京都庭園美術館編『旧朝香宮邸物語―東京都庭園美術館はどこから来たのか』の第1章「朝香宮家の人と暮らし 1906-1947」からの一部抜粋です。挿入図版や注釈の入った完全版は本書をどうぞ。
朝香宮家のはじまり
朝香宮家を創立した鳩彦殿下は、1887(明治20)年10月2日、久邇宮朝彦親王の第八王子として京都に誕生しました。
父君の朝彦親王は伏見宮家の出身で、かつては「青蓮院宮」「中川宮」と称されるなど、幕末の政局に大きな影響力を持った宮様でした。朝彦親王は、子宝に恵まれたことでも知られています。鳩彦殿下の兄弟には、邦憲王、邦彦王、守正王、多嘉王といった4人の兄宮と、弟宮の稔彦王がいました。
兄宮たちと年齢の離れていた鳩彦殿下は、弟宮の稔彦王といとこにあたる北白川宮成久王の二人と、特に仲が良かったようです。三人は同年代でしたから、幼少時から互いに励まし合い、ときにライバルとして競い合ったことでしょう。長兄にあたる邦憲王はご病身のため久邇宮家を継がず、賀陽宮家を復興しました。父君の久邇宮家は次兄の邦彦王が継承しました。邦彦王は、香淳皇后(昭和天皇妃良子様)の父君ですから、鳩彦殿下は皇后の叔父君にあたります。実兄である梨本宮守正王は、「おヒゲの宮様」として、また、弟宮の東久邇宮稔彦王は、戦後間もない頃に総理大臣を務めたことでも広く知られています。
朝香宮允子妃殿下は、明治天皇の第八皇女として1891年8月7日に誕生し、富美宮と称されました。妃殿下には明宮嘉仁親王、常宮昌子内親王、周宮房子内親王のご兄姉と、妹宮の泰宮聰子内親王がありました。今日に伝わる写真は、四姉妹の仲が良かった様子を物語っています。妃殿下の兄宮、嘉仁親王は後に大正天皇となり、二人の姉宮はそれぞれ竹田宮恒久王妃と北白川宮成久王妃に、妹宮は東久邇宮稔彦王妃となりました。恒久王は成久王の兄宮であり、明治天皇の四皇女はいずれも鳩彦殿下の兄弟やいとこの方々と結婚したことになります。
1906年3月、鳩彦殿下は明治天皇の特旨によって「朝香宮」の称号を賜り、一家を創立しました。朝香宮という称号は、父君の朝彦親王が維新後伊勢神宮の祭主を務めていた縁で、この地方にある朝香山から採ったと言われています。当初は「熊」の字がついた宮号になる予定でしたが、鳩彦殿下が「熊」の字を避けたために「朝香」宮に決定したというエピソードが残されています。あるいは伊勢神宮の近郊にある朝熊山に因んで、「朝熊」宮となる予定であったのかもしれません。
1910年5月、鳩彦殿下は允子妃殿下と結婚され、後に紀久子女王、孚彦王、正彦王、湛子女王といった4人の子どもに恵まれました。
フランスへのグランドツアー
かつてイギリスの富裕な貴族層の子女たちは、見聞を広め様々な経験を得るため、数カ月から数年に及ぶ大旅行〝グランドツアー〟に赴きました。彼らは御用掛や家庭教師を同伴しての大がかりな海外旅行を通じて、一人前の英国紳士や淑女へと成長していったのです。
大正時代から昭和初期にかけて、日本の皇族も相次いで海外視察の途に就き、異文化や世界情勢を直接見聞きすることに努めました。陸軍歩兵中佐であった鳩彦殿下もまた、1922(大正11)年10月30日、「軍事御研究」の名目で欧州遊学へ向かいました。家族を日本に残し、向かった先はフランスでした。欧米への渡航手段として客船による船旅が主流であった当時、日本を出発してからパリに到着するまで、約40日間を要したとされています。
その間、鳩彦殿下はご家族に向けて絵葉書を送っています。船旅の間に送られた二十二枚の絵葉書には、鳩彦殿下自身が見聞きし体験したものに関する率直な感想が事細かに記されており、パリまでの渡航の様子を読み解くことができます。
欧州航路の定期船「伏見丸」に乗船した鳩彦殿下一行は、北九州の門司港を出発して最初の寄港地である上海を目指しました。航海の初め頃は海が荒れ、たえず床に就いて食事も摂ることができないほどだったようです。上海に寄港した際は、デパート見物やテニスを楽しみ、長江を見てまるで海のようだったと感想を述べています。
その後一行は、11月7日香港、11月13日シンガポール、11月16日ペナン、11月21日コロンボ、12月3日スエズと順調に航海を続けました。各寄港地では、香港の夜景が一望できるヴィクトリア・ピークへ登ったり、釈迦の歯が納められたとされるコロンボ近郊のキャンディの仏歯寺へ参拝したり、カイロ対岸のギザでピラミッドやスフィンクスの見学をしたりと、一行の予定は忙しいものでした。
一見したところ観光のように見えるものだけでなく、現地の日本人小学校の視察、英総督の催す食事会への出席、エジプト国王から公式の出迎えを受けるなど、皇族としてこなさなければならない仕事も多くありました。絵葉書の中で鳩彦殿下は、自分の行動に大勢が付いて回るので十分に見学ができないともこぼしており、皇族ゆえの不自由さを感じていた様子も垣間見えます。絵葉書には、寄港地についてだけでなく、船上での生活に触れているものもあります。允子妃宛の絵葉書には、「婦人ハ多クノ船客ノ注意スル所ナル故態度並ニ服装ノ二点ハ畏モ注意スヘキ事ニ候」と書かれ、船上でのご婦人の過ごし方や衣服について説明する内容が見受けられます。また、運動会や仮装パーティなどの各種の催しが開かれ、長い航海も面白く過ごすことができたとも書かれています。
その後、ようやくスエズ運河を通過した一行は、地中海の港マルセイユで下船し、12月11日、鉄路で目的地であるパリに到着しました。
当時、パリには鳩彦殿下のいとこにあたる北白川宮成久王ご夫妻がご滞在中でした。成久王は殿下の近況を、日本に残る允子妃殿下に宛てて「……殿下モ御着以来大変御元気デステニ〝ハリーチアン〟ニナラレツヽアリマス……」と手紙を送っています。初めて訪れた活気溢れるパリの街で、あらゆるものに好奇心旺盛なまなざしを注ぐ、若き皇族の潑剌とした姿が目に浮かぶようです。
鳩彦殿下はその年の暮れから新年にかけて、北白川宮ご夫妻と一緒にヨーロッパ・アルプスの景勝地、シャモニーへ旅行をしています。この時のことを、殿下は允子妃に宛てた絵葉書の中で、「私ノ様ナ田舎者ハ服ヤ其他ノ関係テ新年ヲ巴里テ迎ヘル事カ出来ナイソレタカラ都落シテシヤモニクスニ来テ新年ヲ迎ヘマシタ……」と記しています。殿下のユーモアが利いた表現の中にも、「狂乱の20年代」と言われた、第一次世界大戦後の好況に沸くパリの華やかな様子が偲ばれます。
旅行から戻った鳩彦殿下は、凱旋門の西方に広がる16区の、マラコフ通り88番地のアパルトマン6階に居を定めます。約2年半にわたり「パリの朝香宮邸(朝伯爵邸)となった、ヴィクトル・ユゴー広場に近いアパルトマンとその界隈は、当時の佇まいを今日でもよく残しています。
1923年4月1日、北白川宮ご夫妻とともにノルマンディー方面にドライブに出かけた鳩彦殿下は、パリから150キロあまり隔たったエブルー郊外の村、ペリエ・ラ・カンパーニュ付近で交通事故に遭って重傷を負いました。この事故で車を運転していた北白川宮成久王は薨去され、鳩彦殿下の義姉にあたる房子妃も重体と診断されました。
事故の報に接した允子妃殿下は、夫と実姉の看護のために急遽渡仏、幸いにも妃殿下が到着する頃には、パリ郊外ヌイイーの病院に入院中であったお二人も、外科の権威アンリ・アルトマン医師の治療を受けて順調に快方へと向かっていました。房子妃は退院後まもなく帰国しましたが、鳩彦殿下はパリに留まり、允子妃に付き添われて療養を続けていきました。当時、リハビリを兼ねてブーローニュの森を散策する二人の仲睦まじい姿が写真に残されています。
当初の予定を大幅に上回り、約2年半に及んだ二人揃ってのパリ生活、それはまさに朝香宮ご夫妻にとってのグランドツアーそのものでした。
パリでの生活
事故の傷が癒えると朝香宮ご夫妻は、イギリス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、オランダ、スイス、イタリア、スペインといった欧州各国の巡遊旅行へと向かいました。何かと堅苦しい皇族の身分を伏せて、「朝伯(爵)」の肩書きでオリエント急行や自動車に乗り、両大戦間のヨーロッパ諸国の独特な雰囲気を精力的に直接肌で感じ取ろうとしたのでしょう。南仏カップ・マルタンで訪れたアルべール・カーン邸では、当時非常に珍しかったカラー写真のモデルになったこともありました。日本とも関係の深かった銀行家カーンとの親交は、お二人の帰国後も続けられることになります。様々な土地を訪れたご夫妻がこの時どのような感想を抱いたのかを知る由はありませんが、その経験は帰国後「アール・デコの館」となって具現化されることとなるのです。
多忙な視察旅行の合間を縫って、ときにはパリ市内の散策を楽しむこともありました。滞欧中の想い出を綴った古いアルバムに、19区のビュット・ショーモン公園を訪れた際の写真が残されています。フランス語で〝禿げた丘〟を意味する〝ビュット・ショーモン〟公園は、かつて石切場として使用され、その後荒廃していた敷地一帯を整備し、1867年のパリ万国博覧会と同時にオープンした広大な公園です。園内には起伏に富んだ岩山を中心として、人工的に作られた滝や洞窟が各所に配され、今日でもパリ市民の憩いの場となっています。人気の撮影スポットである吊り橋上で撮った允子妃のポートレートが残されていますが、足下には帽子を被った鳩彦殿下の影法師が写っているのがわかります。真剣な表情で「Souriez!(笑って!)」と呼びかける殿下の声が聞こえてきそうな、微笑ましい一枚です。
(東京都庭園美術館編『旧朝香宮邸物語―東京都庭園美術館はどこから来たのか』アートダイバー、2018年、pp.28-36)
東京都庭園美術館編『旧朝香宮邸物語―東京都庭園美術館はどこから来たのか』