日本文化を読み解く暗号(コード)とは?
「侘び・寂び」でも「アニミズム」でも「武士道」でも解読できない日本とは何か? ニューヨークのメトロポリタン美術館でたまたま出会った尾形光琳作《八橋図屏風》。その言葉にできない感動体験から、著者による日本文化の水脈を探す旅が始まった。
この記事は、東晋平『蓮の暗号 ―〈法華〉から眺める日本文化』のプロローグ「メトロポリタンの燕子花」からの抜粋です。完全版は本書をどうぞ。
メトロポリタンの燕子花
私が最初に日本という自国の「姿」を発見したのは、おそらく旅先のメトロポリタン美術館の1室だった。
天皇が替わり、元号が昭和から平成になった1989年初秋のニューヨーク。単身でアメリカ旅行をしていた20代の私は、壮大さに圧倒されながらこの建物の石段をのぼっていた。
マンハッタン島の面積は、東京の山手線の内側のそれにも満たない。だが、近代美術館(MoMA)やグッゲンハイム美術館、ホイットニー美術館、フェルメールを3点所有するフリック美術館をはじめ、大小のギャラリーを含めると、すさまじい数のアートがこの狭い島に集積している。なかでも圧倒的な規模を誇るのがメトロポリタン美術館だ。
セントラルパークのなかほど東端にある巨大な建物。南北の長さは、5番街を挟んだイースト80丁目から 84丁目まで4ブロックに相当する。開館は1880年。3連のアーチとギリシャ風石柱が印象的なファサードだ。設計したのは、あの自由の女神の台座を手がけたリチャード・モリス・ハント。その後も増築を重ねて今日にいたる。
アッシリアの石像から現代アートまで、およそ5000年。この建物に収蔵された総計300万点とも言われる品々は、人類の文明のあらゆる美を貪欲に蒐集しようとしたかのようだ。教科書や美術書で見覚えのあるヨーロッパの絵画や彫刻の数々。はじめて見るイスラムやアフリカの美。当時はまだあまり見たことのなかったアメリカ印象派の絵画。膨大な作品のなかを何時間も巡り、すっかり歩き疲れてアジアの部屋に入った。
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少し歩き進んだときだ。部屋の片隅から青と緑の光が視界に飛び込んできた。ほとんど吸い寄せられるように、私はそこへ歩み寄っていた。
6曲の屏風が1双。まばゆい金地のうえに、あざやかな青と緑で燕子花が群生している。2隻の屏風を貫いて右上から左下へ、力強い幾何学的なラインで描かれた墨色のシンプルな橋。燕子花を見ている視点と橋を見ている視点はズレていて、そのことが燕子花と橋のコントラストを絶妙にさせている。
それは、尾形光琳(1658-1716)が晩年に制作した《八橋図屏風》だった。『伊勢物語』の第9段「八橋」を描いたものだ。
関西で育った歴史好き少年だった私は、京都や奈良の主だった寺社とその宝物を、子どもの頃から何度も観ていた。けれども、世界の美術史の森を巡るようなメトロポリタンの1室でこの《八橋図屏風》と対面したとき、なぜかはじめて自分が「日本」と出あえたような昂ぶりを感じた。
閉館間際のミュージアムショップに急いで直行すると、迷わずに2枚組になっている《八橋図屏風》のポスターを買った。人生初のアメリカ旅行なのに、その記念に買ったのが日本美術のポスターというのは自分でも奇妙な気がした。それほど心を動かされたのだろう。東海岸からハワイを巡る2週間の旅行中、ポスターが折れないように気づかい、帰国するとフレームを特注して自宅に飾った。
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私は今、COVID-19のパンデミックによって閉ざされた世界のなかで、この本を書いている。訪日外国人旅行者数は、2013年にはじめて1000万人を超え、パンデミック前年の2019年には3188万人を突破した(日本政府観光局統計)。平日の銀座を歩くと、一瞬、自分がどこの国にいるのかわからなくなるほど外国人が溢れていた。
他者のフラットな好奇心と驚きは、しばしばこちらの予測不能なところに注がれる。そのことによって私たちは、認識していた自身の像が、むしろ既成概念にとらわれた一面的なものだったことに気づかされる。
異邦の人々は、日本の文化とそれを織りなしてきた歴史に、ますます探求心を傾け深めようとしている。一方、当の日本に暮らすわれわれの側はどうなのだろう。どこまで自分たちの文化の多様性と多層性を理解しているのか。
何でもかでも「禅」「神道」「侘び・寂び」「武士道」「アニミズム」。すっかり手垢にまみれたお決まりのラベリングで片づけて、なんとなくわかったようなふうに誤魔化してはいないか。この違和感が、私のなかにはずっとくすぶっていた。
しかし、たとえばあのメトロポリタンの《八橋図屏風》は、このような既成のラベリングで説明できるのだろうか。
同じく光琳作の国宝《紅白梅図屏風》でもいい。光琳が私淑した俵屋宗達の国宝《風神雷神図屛風》でもいい。あるいは世界最古の女流文学とされる『源氏物語』。この300年間ほぼ毎年どこかで演じられてきた歌舞伎最大の人気演目『京鹿子娘道成寺』。おそらくもっとも世界に知られた日本の絵画である葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》。これらはどれも、先述したようなラベリングで単純に語ることはできない。むろん「密教」でも「浄土教」でもない。
つまり、「日本」を考えるうえで私たちがまだ見落としている要素がある。いや、そもそももっと本質的なことを、日本人自身がよく理解しないままにいるのかもしれない。
日本で「禅」や「神道」が思想として受容され、文化として花開くのは、13、4世紀のこと。しかし、それよりも早く文化の土台になっていたものがある。それが『妙法蓮華経』略して『法華経』だった。
サンスクリットでは「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)と題さ
れた経典。大乗経典を代表するこの経典は、紀元1世紀頃に現在の北西インドあたりで成立した。それはナザレのイエスが宣教し、パウロによってキリスト教が萌芽を見た時代ともほぼ重なる。
5世紀のはじめ、鳩摩羅什はこれを「妙法蓮華経」と漢訳した。語学の天才であった羅什は、シルクロードの亀茲国(現在の新疆ウイグル自治区クチャ県)に生まれ、初期仏教から大乗仏教までを深く理解し、豊かな漢語も身につけていた。
401年に後秦姚興帝によって長安に迎え入れられると、409年に没するまでのわずかな期間に多くの人材を育成し、『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』『中論』『維摩経』『妙法蓮華経』など74部384巻の経巻を漢訳している。明快で流麗な羅什訳の大乗経典が数多く残されたことで、中国は大乗が優位な文化圏になり得た。
日本最古の書跡として皇室御物になっている《法華義疏》は、聖徳太子筆とされる法華経の注釈書。東大寺大仏建立で知られる聖武天皇は、741年に国ごとに国分僧寺と国分尼寺を建立する詔勅を出した。国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」だ。753年に来日した鑑真は、智顗(天台大師)の法華経講義をまとめた『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』をもたらした。
そしてこの法華経の影響は、単に仏教の世界だけにとどまらなかった。日本の宮廷から庶民まで幅広い階層のうえに、じつに多様な文化の花を開かせていくことになる。
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あの日、メトロポリタン美術館の1室で私を釘づけにした1双の屏風。そこに脈打っていた生命とは何だろう。一見して宗教的なものは感じられない。私は長いあいだ、その秘められたものに思いいたらなかった。
それは、日本文化に流れ通う「法華」の水脈を、ともすれば私たちが意識の外に置いてきたからではないのか。その流れは、あからさまな水音を立てない。むしろ地中深くを潤し、あらゆる草木の根から茎へと巡って、豊かな森を育んできた。
そこに、ありありと描かれているのに、そうとは気づかないもの。気づかせないもの。それを、あえて想像力を豊かに解読の妄想に耽ってみたい。
(東晋平『蓮の暗号 ―〈法華〉から眺める日本文化』アートダイバー、2022年、pp.18-23)