フェミニスト・ アート入門―美術史のなかのフェミニスト運動とは?

これからの社会を動かす若者に向けた活動や実績が評価されている社会派アートグループ「明日少女隊」。世界各国に散らばる隊員によるアート&アクションは、社会を変える実行力において他のアート集団とは一線を画する。ここでは、『明日少女隊作品集 We can do it !』に収録された「明日少女隊を通して考えるフェミニスト・ アート入門」(執筆:由本みどり/現代美術史家・キュレーター、ニュージャージー・シティ大学教授) の冒頭部分を紹介し、美術史のなかでフェミスト・アートがどのように実践されてきたかの一例を紹介する。


明日少女隊を通して考えるフェミニスト・アート入門

フェミニスト・アートは最近になって生まれたものではなく、女性参政権獲得運動のはがきなどもその先駆と見ることができます。しかし、従来の男性の手による美術史ではその存在は陰に押しやられていました。ここでは、主に日米のフェミニスト・アートを俯瞰的に見ながら、明日少女隊が歴史的にどう位置づけられるかを考えます。

文・由本みどり(現代美術史家・キュレーター、ニュージャージー・シティ大学教授)

アートの手法を用いて「社会に持続的なフェミニズムのムーブメント」を起こす手伝いをするのが、2015年結成の明日少女隊(以下TGTと略)の活動意義ですが、このように意識的にアートをフェミニスト運動に用いた前例にはどのようなものがあるのでしょうか? ここでは、フェミニスト・アクティヴィズム(運動)、即ち、フェミニズムのメッセージを広めたり、様々な性差にまつわる問題意識を高めたりする目的でアートが用いられた例を、歴史をさかのぼって紹介しながら、明日少女隊との接点を考えます。
最も早い例として、20世紀初頭に、イギリスで女性参政権獲得運動のマーチや講演のために作られた様々な旗、ポスター、はがきなどがあります(写真)。文字だけのものも多いですが、中にはその団体の紋章、町の風景などの絵が統合されたものもあり、当時流行のアール・ヌーボー様式のものも多く、デザイン性が高いです。もっとも、フェミニズムという言葉は1970年代以降広まったもので、19世紀から20世紀前半は、婦人参政権運動(suffrage)に代表されていました。1960年代後半からアメリカを中心に広がった、ウーマン・リブ(women’s liberation movement)をジャーナリストが第2波と呼んだ時、それと区別するために第1波という言い方が生まれたのです。

「フェミニズム」以前の女性アーティスト

それでは、「フェミニズム」の意識がまだ浸透していなかった頃、フェミニスト・アートはなかったのでしょうか? 正確には、そうは言い切れません。ウーマン・リブ以降のように、女性同士で団結して社会を変えて行こうという意識はなかったかもしれませんが、第2次世界大戦後、女性の参政権や高等教育が認められるようになった国々で、アーティストを目指した女性が急激に増え、彼女らの作品の中には、先見的な観点から、社会における性差別を訴えるような内容も見受けられるからです。
例えば、九州派という前衛芸術集団に属していた田部光子は、1961年の東京の「九州派展」で、自分の妊娠経験から、女性の妊娠という重荷からの開放を願って、マネキンの腹部に真空管を挿入した彫刻3点と、胎児を表す2点の彫刻からなるインスタレーション、《人工胎盤》を発表しました。同展に展示されていた田部の《プラカード》というコラージュ絵画のシリーズも、黒人公民権運動や、福岡の炭鉱労働者の権利を希求した三池闘争などの当時の社会問題を、女性の性を通して見つめようとした試みでした。
アメリカから日本に10年ぶりに帰国したオノ・ヨーコも、日本でより強く感じた女性蔑視がひとつの引き金となって、《カット・ピース》という作品を、京都と東京で1964年に発表しています。一張羅を着て舞台に座った彼女が、はさみを目の前に置き、観客に彼女の着ているものを切り取り、持って帰ってくださいと告げると、観客が一人ずつ舞台に上がって、好きな部位の服を切り取っていくというものでした。京都では、男性がはさみを彼女にふりかざすなど、危険もありましたが、後にニューヨークとロンドンの4回、彼女はほぼ裸にされるまで、この作品を上演しました。受動的な姿勢をとりながらも、観客とパフォーマーの立場を逆転させたことと、女性が社会で受ける様々な暴力を視覚化した点で、今ではフェミニスト・アートの先駆として取り上げられることの多い作品ですが、本作品のインストラクション(指示書)では、演じる人は女性だけに限られず、性差の問題だけが示唆されていたわけではありませんでした。非暴力の姿勢をとり続けた、インド独立運動の活動家、マハトマ・ガンディーのように、平和主義を訴える意義も強かったと思われます。
また、オノと同時期にニューヨークで活動した草間彌生も、1960年代初頭から、男根状突起物で覆われたファウンド・オブジェクトの彫刻作品やインスタレーションを発表していますが、当時はそれらをフェミニスト的な観点から論じた批評はほぼ皆無でした。草間本人も、彼女が描いたばかりの絵を捨て、画家になることを認めなかった頑固な母親をフェミニズムの産物と思い込んだことから、フェミニスト的解釈についても、自分の作品を「家事の延長」と見ることはつまらないと、フェミニズムの意図を誤解して、拒否しています。
草間だけでなく、日本人女性アーティストで、1960年代にこのような先駆的な作品を発表していても、後のフェミニスト的解釈や、女性アーティストという呼称でさえ拒否する人は多いのが現状です。その要因のひとつには、日本では、1970年代初頭に火のついたウーマン・リブの運動が、男権主義的なメディアによって、しばしば揶揄の対象とされ、フェミニズムについてのネガティヴなイメージと多くの誤解が蔓延してしまったということがあるでしょう。
もっとも、ジェンダーのアイデンティティやフェミニズムとの関連を拒否したのは、日本人女性だけではありません。20世紀前半からアメリカで画家として活躍したジョージア・オキーフも、1970年代にフェミニスト・アーティストたちに模範として取り上げられた時、自分は女性として差別されたことがないからと、フェミニズムとの関連を拒否しました。 そのような発言だけをもって、彼女は反フェミニストであるとか、遅れているなどという判断をするのは早とちりです。彼女らそれぞれの育った時代、社会、家族背景の違いにより、フェミニズムの受容の仕方も大幅に異なるからです。更に、彼女らがそのような姿勢をとったのには、あくまでも男性と同等に見られたいと思ったからこそですが、批評家達がほとんど男性で、彼らが女性アーティストを見る目に偏見がありがちなことや、美術界のシステム(制度)自体がジェンダーや人種の面で不均衡であることを、意識していなかったことも大きな理由です。
このように、女性の間にさえある、根深いフェミニズムについての誤解や偏見を訂正するために、明日少女隊が行った《広辞苑キャンペーン》は、6000人以上の署名を集めることによって、2018年出版の第7版の『広辞苑』中の「フェミニズム」の定義を実際に変更することに結びつき、社会での実際の変化を促しています。

1970年代のフェミニスト・アート

美術批評家のルーシー・R・リパードは1980年に、フェミニスト・アートは「様式でも運動でもなく、価値観、革命的な戦略、生き方」であり、「その革新性は形態でなく内容にある」と述べました。また「フェミニスト・アーティストたちが、形態や様式よりも体験や意味を重視したことは、進歩(progress)と様式的発展を重視してきたモダニズムへの挑戦でもあった」と指摘していま。ここで言うフェミニスト・アートとは、1970年代初頭から、アメリカを中心に、女性解放運動に共鳴するアーティストたちによって制作され、発表された、女性としての体験や性差別を題材にした作品群のことを指しています。彼女らの表現は、絵画や彫刻など既存の美術の媒体に留まらず、比較的新しい媒体であったパフォーマンスやヴィデオ、コンセプチュアル・アート、そしてそれまでは「工芸」として冷遇されていた陶芸や布(textile)を使った表現へと拡張されていきました。
初期のフェミニスト・アートの代表的な作品に、ジュディー・シカゴの《ディナー・パーティー》があります。一辺が約15メートルもある、白い布で覆われた三角形のテーブルに、一辺につき13人の女性が食事を出来るように、個々に刺繍装飾が施されたクロスと、その上にディナー皿、スプーン、フォーク、ナイフ、そして内部が金色のが置いてあります。計39人のゲストは、「原始時代の女神」に始まり、古代エジプトの女王ハトシェプスト、ビザンチン帝国の皇后テオドラ、バロック時代の画家、アルテミシア・ジェンティレスキ、奴隷解放運動の活動家、ソジャーナ・トゥルース、作家のエミリー・ディキンソン、最後は20世紀前半のアメリカ画家、ジョージア・オキーフなど、主に西洋史、特にアメリカ史に名を刻んだ女性たちで、時代も場所も越えて、彼女らが一堂に会し、晩餐を共にするというコンセプトです。皿にはそれぞれの人物から連想された意匠が描かれていますが、それらの多くは花、または女性器を思わせる形をしており、そのことでこの作品は激しい批判に遭い、長年展示の機会に恵まれませんでした。2006年に、ニューヨークのブルックリン美術館にエリザベス・A・サックラー・フェミニスト・アート・センターが設立された時に、ようやくこの作品を理想的な形で保管、展示できるギャラリーができ、今ではいつでも鑑賞することができま。
 《ディナー・パーティー》は、1974年に構想されましたが、シカゴ一人で制作したのではなく、100名以上のボランティアの協力を得て1979年に完成しました。一人のアーティストが孤立して制作するのではなく、「協力」を通して完成に至るのが、フェミニスト・アートの特徴のひとつでもありま。シカゴは、1966年にいち早く、フェミニスト・アート・プログラムをカリフォルニア州立大学フレズノ校で立ち上げた美術教師としても知られますが、彼女からフェミニスト・アートを学んだのが、スザンヌ・レイシーでした。サンフランシスコ近代美術館で《ディナー・パーティー》が初披露された1979年3月14日に、レイシーはリンダ・プロイスと協働で、《インターナショナル・ディナー・パーティー》という24時間のイベントを企画実行しました。彼女らは、事前に世界中の女性アーティストたちに呼びかけ、それぞれの地域で知られる女性アーティストを称えるディナー・パーティーを開き、その記録を美術館に送ってもらうように頼んだのです。電報でリオ・デ・ジャネイロや日本などから、様々なディナーの様子が報告され、その場所が大きな世界地図に赤で記されました。後で郵便で送られてきた手紙の中には、ニューヨークでアナ・メンディエタとメアリー・ベス・エーデルソンがホストとして開いた、ルイーズ・ブルジョワを称えるパーティーの写真とゲストリスト、メニューも含まれていまし。
同じ頃、ロサンジェルスのWoman’s Buildingで行われていた、フェミニスト・スタジオ・ワークショップでレイシーらに学ん、 メキシコのフェミニズム運動の初代のメンバーであるモニカ・メイヤーは、1978年に《The Clothesline》という作品をメキシコ・シティーの近代美術館での新しい美術の動向のグループ展で発表しました。メイヤーは何百枚ものピンクのはがきをメキシコ・シティーの多様な女性たちに配り、「女性として、この街の何が一番嫌ですか?」という質問の答えを書いて送り返してもらい、それらをピンクの紐に洗濯ばさみで挟んで展示しました。この作品は、#MeToo運動が世界中に広まった後の、 2019年の「あいちトリエンナーレ」でも注目を浴びましたが、「最近経験したハラスメントは何ですか?」という質問で、ジェンダーを問わない反応を数多くの参加者から募ることに成功しまし。
1970年代はこのように、人種の壁も乗り越えて、フェミニズムのメッセージを広げていこうとする前向きなエネルギーに世界は満たされているかのように見えました。その一方で、その受容には地域的、文化的格差があり、中流階級の白人女性を主体としたメッセージには限界があることも明らかになりました。

『明日少女隊作品集 We can do it !』アートダイバー、2023年、pp.24-30より抜粋、編集、WEBでは図版割愛)

続きは本書にてご覧ください
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明日少女隊作品集 We can do it !

 

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