書評・感想|「ザ・キュレーター」の思考をのぞく刺激的な体験 文:山本知恵 新見隆『共感覚への旅―モダニズム・同時代論』

文:山本知恵(アートライター)

本書の著者・新見隆さんは、キュレーターとして国内外で活躍されること、40年以上。現在武蔵野美術大学で教授を務め、同大学の美術館・館長も兼任されている。いまはなき伝説のセゾン美術館で長きにわたってキュレーションを続けたほか、かつては展覧会の企画監修で西洋美術振興財団賞「学術賞」を受賞したこともある方だ。

そんな生粋のキュレーターともいえる新見さんだが、実は「音楽が美術より好きかもしれない」(本書、385頁)というから驚きである。

意外な言葉の通り、本書には新見さんの音楽への愛と情熱があふれていた。クラシック音楽愛好家の私だが、本書を通して知らなかったエピソードをたくさん知ることができた。それだけではない。さらに読み進めていくと、新見さんの圧倒的な知識量と、音楽、美術、文学を縦横無尽に駆け巡る思考が、凡人の私の頭をグルングルン振り回す。

「ザ・キュレーター」の頭の中はこうなっているのか……。なんて高いところで、自由に思考を遊ばせるのだろう!

それは、目が回るように刺激的な読書体験だった。

本書は新見さんの著作ということで、美術関係者が手に取ることが多いかもしれない。しかし、音楽好きの方にもぜひ読んでほしいと感じる。

特に心に残ったのは私の好きな作曲家、サン゠サーンスやドビュッシーを取り上げた部分だ。

ピアノの一音一音から、あの頃の街の香り、埃っぽい道路や、糊のパリッときいた麻の洋服の肌合い、すっきりした化粧水をつけた大人の女たちの爽やかな空気など、得も言われぬ、颯爽として溌剌な「戦後の夏」の匂いがたしかに立ち込めてきたのである。

(「光の軌跡―田中希代子のサン゠サーンス、あるいは岡崎京子の孤独 」新見隆『共感覚への旅―モダニズム・同時代論』アートダイバー、2024年、39頁)

音楽を聴いて景色や匂いが呼び起される描写からは新見さんの興奮がありありと伝わってくる。音楽好きの方なら強く共感するところだろう。

また、アーティスト・古石紫織さんの絵画からドビュッシーの「海」を思い起こすシーンもおもしろい。少し長いが、引用させていただく。

古石の筆触には、私は彼女の用意周到な、そして、どんなに用意周到でもさらに気が済まない、そういうある種偏執的な逡巡やこだわりを感じる。それは実は造形家にとっては、必ずしも有効に働く要素だけでは無い。造形とはナマモノであって、高温度の飴玉細工であるガラス造形じゃないが、そういう一瞬の勘所を逃すと、その女神はどこかに消えて行ってしまうからそれを逃さない俊敏さも要請される。極めて理知的な古石は、その危うい狭間を綱渡りしようとする。そういう青をめぐる逡巡が彼女の、一見明るい青に隠されてある。
ドビュッシーの「海」に、蠢き、氾濫する感情は、そうしたものに近い。

「覚醒、または肉体の放棄―古石紫織のドビュッシー青、そして『左手』」同書、290頁

さて、これを読んでドビュッシーの「海」をもう一度聴きたくならない人がいるだろうか?

ドビュッシーの海への憧れが詰まったこの作品は、言わずと知れた20世紀初頭の管弦楽における最高傑作の一つである。精緻な音の重なりと計算しつくされた構成が、聴き手を幻想的な「海」へと誘う。第3楽章の「風と海との対話」は吹奏楽コンクールの定番曲なので、その道でも知っている人は多いはずだ。

絵画作品と音楽作品をつなげて鑑賞することで、双方の作品をまた違った方向から、より深く味わうことができる。なんという豊かで心躍る芸術体験だろう。

ちなみに、古石さんの作品《water mirror》が、この本の冒頭にカラーで掲載されている。透明感のある青が印象的な作品だ。実物を見たらそのグラデーションがより繊細に感じられるに違いない。

古石紫織《water mirror2023年(同書、口絵より)

本書では、上に取り上げたものの他にも、ヴィヴァルディ、シューベルト、ラヴェルといった音楽家や、ロスコ、クリムトといった近代の画家、椎名絢、横尾龍彦といった現代の画家が話題にのぼっていた。さらに神話や文学作品、J-POPや漫画なども取り上げられ、それらをかけあわせて自由な考察がおこなわれている。

音楽好きの人も、美術好きの人も、文学好きの人も、自分の知識とかかわらせながら楽しみ、その世界を広げられるだろう。

最後に私が心を動かされた部分を紹介したい。それは2章の最後にある。

何度でも言おう。だから芸術だけが、社会と人びとを救うのである。

「Yellさかぎしよしおう、あるいは、いきものがかり」同書、372頁

これは、芸術やクリエイティブにかかわる仕事をしている人たちが、皆心の奥底に秘めている想いなのかもしれない。私自身、最近仕事をしていてそのことを強く感じている。

ぜひ、新見さんの「芸術」への想いが詰まった本書を手に取り、その神髄に触れてみてほしい。

 

 

新見隆『共感覚への旅 ―モダニズム・同時代論』

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