新見隆「『表現の影』を求めて ─音の香りをきく美術家たち」
新見隆の著書『共感覚への旅―モダニズム・同時代論』のまえがきにあたる文章を特別公開します。
この本で言うところの「共感覚」の意味が書かれたテキストです。
「表現の影」を求めて
─音の香りをきく美術家たち
それぞれの絵画や彫刻、工芸などの造形は、あるいはまた別にいうと、音楽作品にもまた、固有の質感があるはずだろう。だが質感と言い、その造形圏内を漂う何ともとらえどころの無いような、実態のない浮遊する気配のようなもの。
それは、ある時そこここに漂ってはまた儚く消え去って、彼方に足早に走り去ってゆく。あるいは密かに立ち去ってゆく。だがまた思いかけず、ふと忘れてしまった頃に不意の来客のように静かにかたわらに居るモノ。それに私どもは、ただ驚く。
ほんとうは、それらは作品や作家という実態の、そのまた影のようなものだ。それはまた、それぞれめいめいの仕事が生まれた、その同時代に特有の空気感なのかも知れない。作品でもない、作家でもない、そのどちらとも言えないがたしかにあるような時代の肉体の、空気や気配。それはもしかしたら、その作品を見ている、聴いている、私ども自身の肉体の側にこそ在って、その中にこそ宿った何ものなのかも知れない。
私どもは、またひとしなみに憑かれた者であろうか。
憑かれたモノ、憑かれた者の、さらにそのはざまにあるもの。
同じ時代を呼吸した、その個別のそれぞれの風土を生きた絵画や音楽には、そこに通底する「見えない空気感」のようなものがあるはずだ。それを今、「表現の裏側」、「表現されなかったもの」と、言い切ってもいいだろう。
それは生涯一学芸員として、ただただ「モノ=作品」の実感に触れてさわって生きてきた私の四十余年の稼業的実感であった。
小難しく言いたいわけではないが、あらゆる表現はその背後に、表現されなかった「表現の影」を纏っているものだ。創造者には、作家には、たぶんこの影はどうでも良いことだろう。(嫌それもまた、輪廻転生ではないが、まわり回っては関係があるのだろうが)亡霊のように私ども「見る者」に付き纏っては離れない、その「表現の影」を飽くことなく追うのが、この小著の中で私が目指したことでもあるのかも知れない。
本書の一つのねらいは、それを個別の作品どうしにみてゆくことだ。
だから「共感覚」と大上段に振りかぶってはいるものの、個別の、例えば画家の絵画の色づかいを、別の作曲家の音色から分析したり解明したりする?というような厳密な論理的著述などは、私はやっていない。とうてい出来ない相談だ。だから多くの読者は「なんだ、ただ並べて書いているだけじゃないか」と訝るかも知れない。おっしゃる通りだが、何故その二つを並べるのか、という私なりのキーワードや接点は設定してあるから、読めばああそういうことなのか、とたぶん分かってもらえるはずだ。
今やもう私は、この本の続編を書き始めていて、例えばそれは「幻視の女王」と言われた畏敬、いや畏怖してやまない歌人、葛原妙子と、本書にも登場する二十世紀音楽の巨匠、メシアンを「並べて」書いている。テーマは、二人にとっての「終末」の意味がそれぞれの作品にどう現れたかだ。さらに、義塾慶応仏文の大学時代から研究したかったが挫折した、悲劇の女性哲学者、シモーヌ・ヴェイユと、ウィーン学派の異端児アントン・ヴェーベルンを、「世界を圧縮する」という観点で書いている。さらには、いずれ書こうと思っている『ウィーンと京都は合わせて行く(食べる)となお美味い』という未来著の予行演習で、ウィーン出身の異端の言語哲学者、ヴィトゲンシュタイン(たった一個だが設計もしているのでね)と、京都の粋なる住宅建築家、藤井厚二を「正方形」という関心から、書いている。
十九世紀ロマン派きっての立役者、かのリヒャルト・ワグナーを気取るわけじゃないが、彼が楽劇として、詩やセリフ(文学)と音楽と美術(や舞踊)を総合したように、さまざまな異ジャンルを横断して、私じしんが縦横無尽に楽しんだ結果(をぜひ、楽しんでもらうため)の、この本は報告書のようなものでもある。
前著『時を超える美術―「グローカル・アート」の旅』(光文社新書)あたりから、私は、自分は厳密なる研究書などを書くのはもう無理だな(若い頃みたいにやろうと思えばやれるけど)、もっと柔らかい、それぞれ私の好きな作家の風合いや時代の空気感を知ってもらう、軽妙?で晦渋な?エッセイの方に完全にシフトしている。だから、この本の中には、頭で勉強したものは無い。ここに書かれてあるのは根っからの学芸員、「モノ」に触れて世界を受け取ってきたキュレーターとして、身体で考えたものしか書いてはいない。
扱うほとんどは大きく捉えてルネサンス以降の近代、あるいはその継承としての現代の作品、主には二十世紀モダニズムの前衛作家と、現代の同時代の作家たちである。ルネサンスは、その直前の大航海時代と表裏一体、つまり、全ヨーロッパが土地にべったりくっついた重農主義から、移動・「旅」してモノを運ぶ重商主義へ転換した、グローバリゼーションの始まりだ(ご承知のとおり、その前の正倉院の時代にも、たしかにそれは有ったのだが)。
専門は何処の何だ、と問われると、前世紀末のヨーロッパや西欧のアール・ヌーヴォーの造形美術と建築、それに与えた日本美術(建築や工芸も)の影響、いわゆるジャポニズムだと言う。だがお前は大学でいったい何を教えているのか?と聞かれるが、具体的にはミュージアムの学芸員の育成とそれにかかわる教育だ、と表面的には答えるだろう。だが、本心は、「芸術に対する、愛と情熱」と、答えるしかないようだ。
作品には、背後に意味するものと、表面にたたえる質感がある。その象徴する意味を追うようなイコノロジー表徴(見える形や徴の、背後に隠された意味を追うこと)は私には向かないから、自然、様式的な質感(何が、ではなく、どのように描かれているか)を語る方に向かったので、それらはほとんが作家の自然観の表明であったと思えるようになったのである。
一般には反自然的と思われている、グローバル化の権化のようなモダニズム作品に、意外なことに風土や自然に根ざした質感を追求したものが多いのだ。それは、モダニズムが離れようとして離れられなかった、土着的なヴァナキュラーなものを無意識に探したからだろう。
モダニズムとは、単に故郷喪失ではなく、「失われた共感覚」への旅だ。
民芸運動の柳宗悦が喝破したように、中世では国家などの「共同体」そのものが、美の基準や概念とその現前として存在していて、近代に入って個人主義が都市化機械化のなかで出てくる過程で失われ、「自然と肉体の乖離」が起こり、謂ゆる近代人の故郷喪失の飽くない旅が始まった、というのが定説だろう。中世では、音は見るものであり、色も聴くものであって、それは相互に補完するというより、同じ感覚の質を別個の道具で表現し合うもので、つまりは元来は一体のものとして、人間は齟齬を覚えなかったのであろう。
モダニズム以降の作品の背後には、乖離したそのような「共感覚」への、見果てぬ郷愁や飽くない渇望が隠された作品が散見される。
この本は、そうしたモダニズム以降の芸術の諸相を自然観をめぐって、美術と音楽の同時代的共時性において探ることで、モダニズム以降を「失われた共感覚」への彷徨としてその具体例を探ってみるものだ。そんな試みにしばし、お付き合いいただきたいと思う。
だからこの二十八の物語りは、どの章からめくって読んでいただいても、構わない構成になっている。
最後に若い頃に熱中して、大きな影響を受けた美術批評家、宮川淳の言をひこう。
「本の存在理由はそこに閉じ込められた意味の亡霊にではなく、本の空間にあるべきではないだろうか。鳥の羽のように折りたたまれ、本を開くことによって象徴的にくりひろげられる空間……そのとき、憑きまとう意味の亡霊から解き放されて、すでに別の軽やかな意味作用へ、あの『ほとんど振動性の消滅』へと向かってすべりはじめるのでないならば、ここに拾い集められたこれらの過去の断片にとって、本とは苦痛以外のものではないだろう。」(『引用の織物』一九七五)