後進に美のレッスンを施した「先生」としての金子國義
稀に見る鋭利な美意識で孤高で耽美な世界を描き続けた画家、金子國義(1936-2015)。生前、金子の元には多くの若者が集まり、その創作の源泉となる美意識を学ぼうとしたという。金子からじかに指導を受けた人々へのインタビューを通して、金子の美のスタイルを拾い集めたのが『金子國義スタイルブック』である。ここでは巻末に収録された金子修の文章を紹介することで、金子國義の美意識の一端に触れる。
時間の止まった美しき世界で
文・金子修
善と悪の基準は地域や時代、そして信仰によって変化します。
金子國義にとって善とは「美しいこと」であり、悪とは「美しくないこと」でした。それは、容姿におけるバランスにはじまり、空間の照明から物の配置まで、金子がかかわるすべてのことに適用されました。別格で懐石料理の招待への遅刻は、大いなる「美しくないこと」てした。ただし、自身のトークショウやサイン会への遅刻は、「スターは、舞台が整ってから登場する」という個性的な理由から「美しいこと」とされていました。では、その「美しいこと」は何によって支えられていたのか。かつて、澁澤龍彦先生は画壇にデビューする直前のまだ役者だった金子國義の紹介を、状況劇場発行の機関誌『SITUATION』へ「脱人・金子國義」と題して寄稿してくださりました。
彼の住んでいるアパートの一室は壁も椅子も家具も真っ黒に塗られている。その部屋にはまたおびただしいドライ・フラワーと古めかしい時計がいくつもあって、その時計の針は、いずれもぴたりと停止してあるのである。すなわち、金子君は無時間の世界に住み、ドライ・フラワーによって象徴される、死んだ花の過去の美を追いつづけている画家なのだ。彼の描く絵には、不思識な静寂と、追臆の幼児体験の物哀しいノスタルジアがあふれている。
澁澤先生がいみじくも言い表しているように、金子國義にとって時間は存在しておらず、そのエレガントな暮らしや作品も時間に追われない生き方から生まれたものでした。 僕は戸籍上「息子」ではありますが、2002年に養子になるまで、出会った時から20年間ずうっと「先生」と呼んでいました。一度だけ「お父さんって呼んでみて」とリクエストされ、口にしてみたものの、「何か違う」とお互い笑い合ってそれっきりでした。かといって、「弟子」というのもどうもしっくりこない。
この度、岡部光さんから「金子國義の思想と美学を次世代に伝える書物」をつくろうとの発案を受け、僕も「金子國義の教え」を思い起こそうとしてみたけれど、一緒に過ごした時間があまりにも長かったせいか、生活の思い出ばかりでどうにもなりませんでした。結局のところ「先生」と呼ぶ以外にないから、それを続けていたのだと思います。また一方で、この本のコンセプトが「金子國義の教え」であることからも明らかなように、先生はみんなの「先生」でもありました。
なにかにつけ「良い仕事をしていると若い人がついてくる」と言っていたとおり、金子のアトリエには若者が通い詰めていました。先生は「この子を仕込むね」と、舞妓を育てるお姉さん芸妓の心意気で、箸の上げ下ろしから、何が「美しいこと」なのかを伝えていました。ここに記された言葉はすべて、そうやって先生からじかに指導を受けた歴代の面々に岡部さんが粘り強くインタビューして集まったものです。
その先生が学生時代に師と仰ぎ、通ったのが舞台美術家の長坂元弘氏。長坂先生は小村雪岱の弟子で、創作に詰まると「小村先生の画集を持っておいで」と言われ、つねに手本にされていたそうです。
そうした美意識を引き継ぎつつも、金子先生の創作はさらに自由でした。世界の画家からだけでなく、映画や写真、バレエに歌舞伎、果ては聖書からもヒントを見つけて「美しいこと」を描き続けたのです。ただ、善悪の判別がきわめて明快であるのに対し、それら「美しいこと」に確かな定義はなく、強いて基準をあげるとするなら、好みに合うかどうか、要はセンスの問題なのでした。
そのことが、権力者や桁違いのお金持ちから依頼があっても「あの人、顔が嫌いだから」との理由だけで仕事を断る異次元の美意識の持ち主たらしめていたのだと思います。そして、そのけっして埋めることのできない溝が、もしかしたら僕に先生を「先生」と呼ばせていたのかもしれません。
美だけを善とすることを最後まで守り抜いた金子先生。その言葉から、心に響く何かを見つけてもらえたら、本当に止まってしまった時間の中で永遠の美しさに囲まれて暮らしている金子國義も笑顔になってくれるだろう。そう信じています。
(『金子國義スタイルブック』アートダイバー、2016年、pp.102-103より抜粋、編集)
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