東京都庭園美術館の建物の魅力とは?
東京都庭園美術館編『旧朝香宮邸物語―東京都庭園美術館はどこから来たのか』のまえがきを特別公開します。
現在、東京都庭園美術館の本館として使われている建物は、もとは明治後期に創設された宮家のひとつである朝香宮の邸宅でした。竣工は1933年、昭和8年です。
いまここを訪れる人たちは、だれもが押し並べて、内部を覆う装飾の華麗さにたいする賛辞を惜しみません。でも、それだけではないようです。「よくこんなにきれいに残っていますね」と、建物のメンテナンスのよさに驚く人たちも少なくないのです。
実際、85年も前の建物が、戦火をくぐり抜けて、また戦後の皇籍離脱にともなう建物の主の変遷を乗り越えて、まるでさっきまで各界の貴顕がそこに集い、晩餐の卓を囲んでいたかのような現役の姿で保存されているさまは、ほとんど奇跡だと言ってもよいのではないでしょうか。
この本(編注:『旧朝香宮邸物語―東京都庭園美術館はどこから来たのか』)は、そんな奇跡のようなこの建物の歴史、つまりこの建物を誕生させ、そして守り抜いてきた人たちの熱情を回顧するために編まれました。
そうした熱情の第一は、そもそも1920年代のフランス風に自邸を建造しようと思い立った朝香宮夫妻の、アール・デコというものにかける思い入れの深さです。
その第二は、戦後に邸宅の所有者が西武鉄道に移ったとき、建物の新しい活用法を見出すために、関係者が絞った知恵の数々です。この時期、旧邸宅は外務大臣公邸(外相の吉田茂はそのまま首相にも就いたので、実質的には首相公邸)として、後に白金プリンス迎賓館としても使われました。
その第三は、西武時代を経て旧邸宅が東京都庭園美術館に生まれ変わったとき、館の職員たちが毀損箇所を修繕するために立てた長期修復計画と、それを実施するために積み重ねてきた地道な調査研究です。
これらの熱情がなければ、朝香宮邸は生まれることはなかったでしょう。そして、いまも庭園美術館の本館として存続しつづけていることもなかったでしょう。美術館の歴史を繙く視点としては、いささか異例かもしれませんが、庭園美術館の場合は建物の誕生と保存に意を尽くしてきた人たちの熱情を掘り起こすことが、そのままこの美術館の礎を語ることになるのです。
ところで昨今では、新たに公立美術館をつくると言えば、まずそのための「基本構想」を策定するのが通例です。具体的に言えば、その美術館に新味をだすために、既存の芸術界にたいしてどのような角度で切り込んでいくのかを考えておくということです。こういう切り込み方において、いわばエッジを効かすというところが新美術館の勝負どころとなるわけですが、庭園美術館の場合はいささかようすが違っていました。
当時の資料が残っていないので細部は詳らかではないのですが、大筋として庭園美術館設置の目的は、建物の美術的価値を深く探求し、もって既存芸術を充実させるということにあったようなのです。そこから、建物の魅力を社会に伝え、その魅力と調和する美術品を展示するという基本方針ができてきました。ようするに、庭園美術館の最大のインフラは建物そのもので、最大の展示品は内部の装飾だということになったのです。こうした目的や方針は、2015年にひとつの到達点を迎えます。旧邸宅とその付帯建造物が、国の重要文化財に指定されました。
1983年10月の開館記念展以来、2018年3月に至るまでの35年間に、庭園美術館は175本の展覧会を開催してきました。そこには、もちろん様々な展覧会がありました。そしていまも破られることのない最高入場者数を記録したのが、建物とは時代も様式も縁のない「カラヴァッジョ 光と影の巨匠─バロック絵画の先駆者たち」展(2001年9月〜12月)だったという、嬉しい設置目的からの逸脱もありましたが、建物の生みの親であるパリのアール・デコを深掘りする展覧会も、定期的に企画されてきています。
また、展覧会の面だけではなく、美術館の敷地全体の保存事業も進み、長らく放置されていた茶室が修復され、芝庭、日本庭園、西洋庭園などが整備されました。この事業は、2018年3月に一段落し、庭園美術館はあらためて「総合開館」を迎えます。
さて、これから先、どのような目的のもとに、「庭園美術館はどこへ行く」のでしょうか。これを模索する手掛かりとして、初心を思い出すことが役立つと考え、今日まで庭園美術館が歩んできた歴史を顧みることにしたわけです。
この本の副題を「東京都庭園美術館はどこから来たのか」と名付けたのも、そうした目的があったからにほかなりません。
(樋田豊次郎「まえがき」東京都庭園美術館編『旧朝香宮邸物語―東京都庭園美術館はどこから来たのか』アートダイバー、2018年、pp.18-21)
東京都庭園美術館編『旧朝香宮邸物語―東京都庭園美術館はどこから来たのか』