著者インタビュー|和田唯奈『ぽっかりちゃん』

― 今回の展覧会(2019年3月11日から3月24日、共同アトリエ「B.Esta337」にて)は絵本の出版とセットになっていて、展覧会自体も絵本の朗読をmp3プレイヤーで聞きながら作品を鑑賞していくというものです。絵画をこういったかたちで発表したのにはどういった意図があるのですか?

和田 まず絵本をつくろうと思い、つぎに絵本を表現した展覧会をつくろうと思いました。絵本はひとりでも読めるものですが、やはり読み聞かせられるものでもあります。その絵本にしかないとくべつな体験に興味がありました。
そこで今回は、わたしの朗読によって鑑賞のリズムや順路を支配されながら、物語のある絵画群をたどっていただく、という展示をつくりました。

― 展覧会のスタートが3.11だったこと、ストーリーのなかにも地震や津波の描写がありますが、この物語にとって地震や津波の災害はどんな意味合いを持っていますか?

和田 わたしは、3.11のような大きな天災はもちろんのこと、たとえば虐待や近親者の死、交通事故など、さまざまなどうしようもない出来事によって負ってしまう「トラウマ」について、関心があります。そしてトラウマによって空虚になったこころのおくの存在を、「ぽっかりちゃん」と名づけました。

絵本原画展「ぽっかりちゃん」会場風景(1階)

― 絵本の冒頭には「ぽっかりちゃんは こころのなかに すんでいます」とあり、その後、ぽっかりちゃんはこころを出て、体を出るという冒険をする。そして、最後のシーンではまたこころの中に戻ります。ぽっかりちゃんとは、こころそのものなのでしょうか? あるいは魂のようなものなんでしょうか?

和田 要は「無意識」のことです。じつははじめ、冒頭の一文を「こころのなかの おくのおくの もっとおくに、 ぽっかりちゃんは すんでいます。」としていました。読むリズムなどを考えて削ったのですが。
今回わたしは、こうしたぽっかりちゃんが救われるお話を描きたいと思いました。そこでこの物語では、地震や津波(あるいはいなくなった家族や恋人など)の意味を「読みかえる」ということに挑戦しました。もちろん、ネガティブからポジティブへ、などという単純お気楽な読みかえができるとは考えていません。「折り合いをつける」というのが正しいです。ぽっかりちゃんは、さいごまでぽっかりちゃん。でもぽっかりちゃんだからこそできる豊かな生き方をみつけるのです。

― 家族という言葉が出てきましたが、和田さんは、絵画教室「お絵描きのお家」やその生徒と組織したコレクティブ「しんかぞく」(http://oekakinoouchi.xyz/)という活動もおこなっており、家族や家をテーマにされています。この絵本のなかでも、ぽっかりちゃんとぷつりくんの背後にたくさんの人物が描かれていますが、ここにも家族のテーマが織り込まれているということでしょうか? これは「しんかぞく」のテーマともつながっていますか?

和田 まるい絵(《Making Proof》)のことでしょうか。この絵には、ふたりの血縁の家族を描いています。でも「しんかぞく」は、この絵で表現している「家族」ではありません。しんかぞく、つまり血縁関係のない疑似家族とは、物語の終盤に登場する「だいきらいのしずく」の集まりのなのだと、わたしは考えています。この絵本は、疑似家族とはなにかについて描いたものでもあるのです。

 

《Making Proof》2017年 パネルに綿布、アクリル、ラインストーン、ラメ、カッティングシート、樹脂 1300x1300x45mm

 

― ぽっかりちゃんとぷつりくんの造形について伺います。ぽっかりちゃんやぷつりくんには、目が3つあったり、頭が特徴的なかたちをしていますが、これはどんなことを意味しているのですか?

和田 目について、ひたいにあるのは「ひとにむけられた目」です。閉じているとじぶんのことしか考えられず、開いているとひとのことも考えられます。左右にあるのはただの視力です。ぽっかりちゃんはさいご、これらが統合したひとつ目に進化します。ちなみに、子どもやいぬさん、ちょうちょさんもひとつ目ですが、これは統合した目ではなく「ひとにむけられた目」だけがある状態です。おとなになると、ただの視力が増えます。
頭は性器をあらわしています。ぽっかりちゃんのような、頭がすぱーんと切れたひとのことは、数年前からよく描いていました。記憶とか経験(トラウマ)がなくなればいいのに、脳みそがなくなればいいのに、と思っていました。今回、そのひとにぽっかりちゃんという名前をつけて、どうやったら救われるだろうと考えたとき、ぽっかりちゃんの頭のかたちは「受容するうつわ」になれると思いました。女性器にしようと。そうしたら救うきっかけをくれるひとは、男性器をもっているだろう。処女を失うときって痛いので、先端を鋭利にしよう。それで「ぷつりくん」と名づけました。(英語ではMs.EmptyとMr.Pokeです。)

― 和田さんの作品に特徴的な表面に貼り込んだラインストーン、表面の樹脂コーティング(がある絵とない絵がある)の理由を教えてください。

和田 まずは「かわいい」絵にするため。つぎに、高校生(美術科)のころ、絵って結局錯視じゃん、うそじゃんと気づいて、絵が信用できなくなり、解決策として「ほんもの」をコラージュしはじめました。「ほんもの」の保険のおかげで、いまは錯視への抵抗がずいぶん弱くなり、今回のように物語も描くことができるようになりました。それと関連して、鑑賞者が錯視を真に受けて絵に入りこむのを阻止する意図もあります。キラキラや樹脂は絵の表面を強調し、物語以前に物であることを主張します。また、樹脂でおおってしまうと、筆致がぼやけたり、作者でさえ加筆することが不可能になります。わたしも絵を鑑賞するときは作者がどんな手順で描いたのか追体験するのがすきなのですが、それを拒否する。そうやって、鑑賞者との距離をとろうとしています。フランシスベーコンが絵にかならずガラスつきの額をつけるのと似ています。
以上のような理由から、『ぽっかりちゃん』終盤のこころとからだをでた外の大地の描写は、逆にコラージュを排してキャンバスと絵の具だけにしています。ぽっかりちゃんが、鑑賞者のちかくにやってきた、絵肌をみせた、という表現です。でも、樹脂をやめちゃうわけじゃなくて、もどっていくんですけどね。安心な「ほんもの」保険のなかに。画家としてもそうやって、ホームをもちながらホームの表現に固執せず、行ったり来たりできるのが理想だなと考えています。

― この絵本をどんな人に読んで欲しいですか?

和田 まさに「ぽっかりちゃん」がこころのなかにすんでいるひと。トラウマをもつひと。なかなか治らないこころの病を抱えたひと。それはもちろん年齢性別関係ないですが、個人的に、過去のわたし(に似た女の子)へ向けた作品でもあるので、本のデザインはピンクでかわいくしてもらいました。(小林すみれさん、ありがとうございます!)

― ツイッターで「ちゃんとみせないようにするって意図がある。その意図のまま展示構成までしてしまうと、もうぜんぜんちゃんとみせれなくなる。展示したい、でも観客とは距離をとりたい、ていう矛盾がおおきくなる。」と書かれています。作品は自分のためのものだったものが、今回の展示で人のために描くという意識が生まれたということでしょうか?

和田 ひとのために描くという意識は、今回から生まれました。正確にいうと2年前に新芸術校を卒業したころその意識がめばえて、「しんかぞく展」もそうでした。ただそれと「ちゃんとみせれないようにする意図」とはあまり関係がありません。というより、先ほどもこたえましたが、「ほんもの保険」は必要なんです。鑑賞者と壁をへだてた、安心の場所が。でもだからこそ、少しずつ寛容な意識、そとにひらいた意識をもてるようになりました。ひたいの目がひらいてきたのです。そして画業だけでなくいろいろな生活の経験もつんで、たぶんいまは、統合されたひとつの目で、作品を描けているんじゃないかなと、うぬぼれかもしれませんが思います。

《Explosion》2017年 パネルに綿布、アクリル、ラインストーン、ラメ、カッティングシート、樹脂 380x310x35mm

 

絵本『ぽっかりちゃん』詳細はこちら

 


【展覧会概要】※終了しています
絵本原画展「ぽっかりちゃん」
共同アトリエ「B.Esta337」(東京都台東区台東3-3-7)
2019年3月11日(月)〜3月24日(日)
14時~21時(会期中無休)

 

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