連載|レントゲン藝術研究所の研究(2)時代背景と画廊史研究 Text:鈴木萌夏

前回はレントゲン藝術研究所(以下「レントゲン」)の設立経緯とそのあゆみについて記述したので、今回はレントゲンがオープンした当時の現代美術シーンについて書いていくことにしよう。

レントゲンがオープンした1991年は、日本ではジュリアナ東京がオープンしたり、尾崎豊の「I LOVE YOU」(シングルカット)や槇原敬之の「どんなときも。」がリリースされる一方で、世界的にはソビエト連邦が崩壊するなど、記録することの多い年であった。さらにバブル崩壊が起きて失われた10年が始まったのも1991年頃という見解もある。1986年ごろから好景気に入り、不動産や株価が勢い良く上昇していたが、1989年末に日経平均株価がピークを迎えたあと、年明けから急降下した。1990年10月には株価は半分まで落ち込み、日本は不況に突入したのだった。しかし、1991年の段階では民間企業への不況の影響はまだ少なかったようである。レントゲンをオープンしていることが、その証拠といえるだろう。

日本が好景気になった1980年代後半は美術館ブームと言われるほどに、県立、市立など各地域に美術館が設立された。文部省調査[表1]によれば1996年の登録博物館・相当施設及び博物館類似施設数は、4500館に上っている。

[表1]

1951年に制定された博物館法によれば、博物館(美術館)の役割は「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、併せてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関(図書館を除く)」と定義されている。数ある博物館(総合、科学、歴史、美術、野外、動物園、植物園、動植物園、水族館)のうち、美術博物館の施設数を見てみる[表2]と1987年の379館から1996年には845館まで増加しており、80年代後半から90年代前半にかけて466館が開館していることがわかる。

[表2]

80年代中盤からレントゲンがオープンする91年までの間に首都圏に設立され、かつ現代美術を展示している主要な美術館を挙げてみよう。例えば公立の美術館であれば、東京・世田谷に1986年3月に開館した世田谷美術館、1989年3月に横浜博覧会のパビリオンとして開館し、博覧会終了後の同年11月に正式開館した横浜美術館、茨城県の水戸市立五軒小学校の跡地に市制100周年記念施設として1990年に建設された水戸芸術館などがある。さらに企業も好景気に乗じて美術館を設立した。80年代から少し遡って70年代後半の設立になるが、代表的な美術館として西武美術館(89年にセゾン美術館に改称)がある。西武流通グループ(後のセゾングループ)の堤清二が1975年9月に東京の西武池袋本店12階に開館した。それから財団法人であるアルカンシエール美術団(現・公益財団法人)を母体として東京・品川に1979年に開館した原美術館。また、約3年という短い期間ではあったが、高級エステートを専門に手がけていた東高不動産が1988年に東京・青山に現代美術の企画展専門の美術館として設立した東高現代美術館なども記録すべきであろう。東高現代美術館の活動について詳しく知る手立ては限られているが、展覧会企画は副館長の白石正美(後に白石コンテンポラリーアートを設立)を中心に発案され、豊富な資金力と恵まれた立地条件を背景に「ソル・ルウィット」、「荒川修作」、「デヴィッド・リンチ」展など、様々な展覧会が企画された。最後に、東京都渋谷区の通称キラー通りにあるワタリウム美術館は前身が現代美術画廊のギャルリー・ワタリであり、1990年9月に開館した。その他にも多くの美術館が好景気を背景として各地に設立され、同時に多くの作品が収蔵された。そしてこの頃の美術館で開催された現代美術の展覧会の多くは海外、特にヨーロッパの美術が多く紹介された。『美術手帖』を見ると、同時期の現代美術の動向を探る手立てとなるだろう。この時期の『美術手帖』の表紙には1988年1月号のロバート・ロンゴや1989年6月号のロバート・メイプルソープなど、海外アーティストのグラビアが大きく掲載されていることが多く、海外の新しい美術シーンを紹介する要素が強かったようにうかがえる。同じく、西武美術館や東高現代美術館でも海外作家の作品が多く展示されていた。東京を拠点として現代美術を展示・販売するギャラリーを例に挙げても、同じように海外の作家を積極的に紹介するギャラリーが目立っていたようだ。1950年にオープンした東京画廊は高松次郎、白髪一雄、岡本太郎などの日本人作家以外にも、イヴ・クライン、ジャクソン・ポロック、フンデルトワッサーなど、欧米の現代美術作家をいち早く日本に紹介した。一方、1956年に開廊した南画廊においては宇佐美圭司、中西夏之、荒川修作などの個展を開催するほか、クリストやサム・フランシス、ジャスパー・ジョーンズなどの展覧会を企画した。1970年に開館したフジテレビギャラリーや、1974年に開館し、リチャード・ハミルトン、デイヴィッド・ホックニー、ピーター・ブレイク、ルシアン・フロイドなどのイギリスの作家たちを紹介した西村画廊、1976年にはジョセフ・コーネルやドナルド・エヴァンスなどを紹介した横田茂ギャラリー、そして1982年開廊のGallery360°などである。その他、東京を拠点に活躍している画廊を以下にいくつか列挙する[表3]が、どれもレントゲンより後に設立されていることがわかる。

 

設立年画廊名ディレクター
1991レントゲン藝術研究所池内務
1992WAKO WORKS OF ART和光清
1992佐谷周吾美術室(シューゴアーツとしての活動は2000年から)佐谷周吾
1993SCAI THE BATHHOUSE白石正美
1994ミヅマアートギャラリー三潴末雄
1994タカ・イシイギャラリー石井孝之
1994オオタファインアーツ大田秀則
1995ギャラリー小柳小柳敦子
1996小山登美夫ギャラリー小山登美夫
1996Masataka Hayakawa Gallery早川昌孝
1997Gallery SIDE2島田淳子
1998TARO NASU GALLERY(現・TARO NASU)那須太郎
1998ケンジ・タキ・ギャラリー(1軒目は1994年に名古屋で設立)滝顕治
2001タグチファインアート田口達也
2002nca|nichido contemporary art岩瀬幸子
2004山本現代(2018年に合併し、現在はANOMALY)山本裕子
2005NANZUKA UNDERGROUND(現NANZUKA)南塚真史
2006無人島プロダクション藤城里香
2006ミサコ&ローゼンローゼン美沙子、ジェフリー・ローゼン
2006MA2ギャラリー松原昌美
2007hpgrp GALLERY TOKYO戸塚憲太郎
2008カイカイキキギャラリー村上隆
2008タケニナガワ蜷川敦子、竹崎和征
2009ギャラリーセラー(1件目は1989年に名古屋で設立)武田美和子
2010WAITINGROOM芦川朋子、山内真
2010ミサシンギャラリー辛美沙
2010ユミコチバアソシエイツ千葉由美子
2010スノーコンテンポラリー窪田研二、石水美冬

[表3]

 

余談ではあるが、画廊調査に興味のある方は、今年3月に設立された国立アートリサーチセンターの情報資源グループが公開しているプラットフォーム「Art Platform Japan」を見てほしい。ここでは、1945年以降に設立された画廊(現在は1945~2006年の『美術手帖年鑑』に掲載された画廊のみ)を検索することができる。https://artplatform.go.jp/ja/resources/research-projects/galleries

連載の初回に掲載した椹木野衣のテキストを再度引用するが、レントゲンの設立された時代背景として、現代美術を取り扱う美術館やギャラリーは決して「皆無」ではなかったことが明らかであろう。ただし、東京都現代美術館の開館は1995年であることは念頭におかねばならない。

この時期のアートシーンは、「レントゲン」を中心に語らねば意味がない。(中略)ここで、少しばかりその頃の「雰囲気」を説明しておく。いまでこそ、世界とのコネクションを持つコマーシャル・ギャラリーが都内でも多く活動するようになり、作品を購入するコレクターも層を増し、現代美術を専門とする美術館も増え、アートが一般の話題になるような時代となったが、当時はそのいずれもが皆無であった。そんななかで、三層構造からなる倉庫を改装した巨大で欧米並みのスペースが突如、オープンしたのだ。(中略)レントゲンは作家の卵たちの鬱屈とした欲望の解放を受け止めるに足る場所だった。

椹木野衣「『レントゲン藝術研究所』という時代―バブリーな開放感から、ニヒリズムの爆発へ」『美術手帖』2005年7月号、191-192

一方で、これまでに列挙した美術館やギャラリーで紹介される作家のほどんどは若手とは言い難く、椹木の指摘するように「作家の卵たちの鬱屈とした欲望の解放を受け止めるに足る場所」が他にあったのかという点については議論の余地が残っていそうだ。

「若手作家の作品発表の場」として貸画廊の存在は大きい。貸画廊とはつまり、展覧会のための展示空間を作家に貸し、その賃料によって運営するギャラリーのことであるが、有名批評家を顧問にするところもあるなど、発表の機会を望む作家にとって自由な表現が可能になると同時に評論家に講評や目をかけてもらえるチャンスがある!という点において需要があったようだ。一方、賃料が1週間で20〜30万円になることもあり、若手からすれば、その負担は大きいといっていい。この貸画廊のシステムに対抗して、1993年4月4日〜18日に展覧会「ザ・ギンブラート(THE GINBURART)」が会期中24時間休みなく開催された。飯田啓子、岩井成昭、小沢剛、申明銀、中村政人、西原珉、ピーター・ベラーズ、村上隆の8名が、銀座1〜8丁目全域、主に歩行者天国(路上)を会場として作品やパフォーマンスを発表した。さらにスモール・ヴィレッジ・センター(小沢剛、村上隆、中ザワヒデキ)、会田誠、宇治野宗輝、謝林、鈴木真梧、パルコ木下など26名がゲスト・アーティストとして参加。イベントのタイトルは銀座をぶらぶら歩くという意味のいわゆる「銀ぶら」と「アート」の合成語であった。本展の実施概要によれば、会場となる銀座が上記のような場所であると述べた上で、開催目的を以下のように語っている。

「GINBURART」は、その「銀座」そのものを主題とする展覧会です。人間優先の規制の枠に捕われることのない、全面開放された空間とビジョンを展開します。しかし、ここではそうした状況への働きのみに終始するものではありません。むしろ八人の作家が別々のアプローチを持って銀座のイメージを解体していき、美術に納まり切らない諸問題をスリリングに提示することに主目的があります。路上でのこの展覧会は、各作家自身の責任のもと作品を発表します。美術館や画廊というまもられた場ではないため、作り手も見る側もより鋭く、やわらかい視覚、思考が必要とされます。それは、ARTとはなにか?という普通な疑問に、より普通に答えるための試みでもあります。消費社会の生んだ巨大な物質文化の中でただよう私たちは、つぎの時代を迎えるべく、さらなる多様な認識の選択を問われています。銀座の街にアーティストが行うこの行動は、習慣的、常識的認識から逸脱しその選択をするうえでの勇気と契機を生み出すことでしょう。

「ザ・ギンブラート設定資料 」より

本展は、美術館やギャラリーといったホワイトキューブ的空間や貸画廊とは別のアプローチを試みる実験的な展覧会だったということがわかる。会場になった銀座の「歩行者天国」は、1970年8月に導入されたものである。高度経済成長によって増加した自動車による大気汚染や交通事故、排ガスや騒音といった交通公害の一時的な防止策として、また、広々とした車道を自由に歩ける開放的なイメージを流布することで、観光客や買い物客の増加につながるという考えもあったようだ。実際、その試みは成功し、繁華街という消費経済が生まれることで、貸画廊システムもまた銀座で急速に発展を遂げることになる。「ザ・ギンブラート」は、大学院などを卒業して間もない20代〜30代前半の超若手作家たちが、美術館や貸画廊ではない発表場所を求めて立ち上げたイベントであったがこうした実験的な作品を恒常的に発表できる場所であり、作家と同世代の人々が集う場所としての機能が、都内の巨大倉庫を改装したレントゲンに備わっていたのだ。そのことを示すかのように、「ザ・ギンブラート」に参加したアーティストのうち会田誠、小沢剛、村上隆、福田美蘭などは同時期にレントゲンでも作品を発表している。それはディレクターや作家が企てたというよりも、そのような場を求めていた、ちょうどそのタイミングが重なったことにあるといえるだろう。

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