アートオークションについて知っておいて損はないこと(1)

Text:細川英一(アートダイバー)


ここのところ「アート投資」という言葉が巷を賑わしているが、はたしてアートは投資に向いているのか? また、マーケットの盛り上がりとともに必ず聞こえてくる「アートバブル」の実態とは? 十数年から20年弱の周期で繰り返すアートバブル、そしてその陰で何が起こっているのかを、約14年前に起こったミニアートバブルを例に眺めてみる。


目次

・リーマンショック以前のアートマーケット
・100億円時代へ突入
・マーケットの片隅にいた現代美術
・それはクリスティーズ香港から始まった
・高額作品の根拠とは
・転売屋から始まる負の連鎖
・アート投資は難易度が高い


リーマンショック以前のアートマーケット

 昨今のアートマーケットの盛り上がりを横目に、気になっていることがある。それは、現役作家、とくに若手とも呼べる作家の作品がこれだけオークションに出ているにもかかわらず、そのリスクについて触れる論調が少ないことである。 前回、このリスクが目に見えるかたちとなって現れたのはリーマンショックが起こった2008年の秋頃からのことなので、気がつけば約14年も前である。2003年頃から盛り上がったマーケットが、2008年のリーマンショックの影響で一気に冷え込んだときに何が起こったか。今20歳代のアーティストやアート関係者、あるいは2008年以降にアートに関わった人ならば、当時何が起こったのかを知らなくても不思議はない。
 そこで、ここでは当時のことを振り返りながら、マーケットが盛り上がる今の状況に潜むリスクを明らかにしてみたいと思う。当時を知らない若手アーティスト、コレクターのみならず、若いギャラリーやオークション関係者、さらにはメディア関係者にも読んでもらいたい。逆に言えば、当時のマーケットの状況を見ていた人にとっては、さほど新しい情報はないと思ってもらって構わない。
 本題に入る前に、私がなぜこの文章を書いているのかを簡単に説明しておこうと思う。かつて私はある美術雑誌の編集部に所属しており、アートマーケットについての取材を幅広く行っていた。ジャンルを問わず、ギャラリー、百貨店、アートフェア、そしてオークションに頻繁に足を運び情報収集に努めた。時期としては、雑誌創刊のためのリサーチを始めた2006年の前半から会社を辞める2013年の秋までの7年ほど。2006年以前は、マーケットに特化はしていないものの、やはり同社刊行の雑誌編集部に在籍し、現場での取材のなかで2003年頃からマーケットが盛り上がる様をひしひしと感じていた。ゆえにこの文章は、当時の現場取材で感じたことをベースに書かれている。十数年前とは状況もだいぶ違うが、今を理解するために少しは役に立つものもあるだろう。またこの文章では、アートの芸術的な魅力についてはほとんど触れずにマーケットの側面に絞って書いていくので、そういった考え方に抵抗がある方にはおすすめしない。  


100億円時代へ突入

 さて、先に述べたように2003年頃から盛り上がりを見せるマーケットは、数年の間に拡大していく。一般的に、景気が上向いた時、美術品の中でも真っ先に売れ出すのはブルーチップと言われるような高額な美術品である。その意味で、2004年5月のサザビーズニューヨークにおいてピカソの《パイプを持つ少年》が1億416万8,000USドル(当時のレートで約115億円)で落札されたことは、その後のアートマーケットの盛り上がりの起点と言えるものだったであろう。そこから数年をかけて資金の行き先が中堅、若手の作品へと向い、売れ出していくのだが、その動きが一気に可視化されたのは2006年だった。ポロック、デ・クーニング、クリムトとオールドマスターたちの作品が1億USドル(約100億円)を超えるなど、オークションレコードが次々と更新される一方で、現役作家の作品が100万ドル(約1億円)を超えていく。そう、当時は1億円超えがひとつの指標になっていた(その後、あっという間に10億円を超えていくのだが……。さらに付け加えておくと、国内では1000万円超えが指標だった)。
 アートフェアの会場で、大御所のみならず、中堅から若手の作品が飛ぶように売れていったのも2006年だ。私はこの年、スイスのアートバーゼルの会場を取材していたが、前年と比べるとセールは熱気を帯びていた。それはアートバーゼル本体のみならず、その近くで開催されたセカンドフェアのListeやVoltaといったカッティングエッジのアートフェアでも、無名の作家の作品が次々に売れていくさまが見られた。日本からは村上隆のGEISAIで注目を集めたばかりのロッカクアヤコがVoltaに参加していた。彼女の完売の噂はアートフェア会場の方々で聞かれた。世界のアートマーケットの好景気は、高騰するオイルマネーによる金余りと中国の経済成長によるものであった。


マーケットの片隅にいた現代美術

 国内ではどうだったか。当時の日本のアートシーンをかいつまんで素描してみる。日本のアートマーケットの大きな割合を占めていたのは、現代美術ではなく、古美術と百貨店で販売される日本画や洋画であった。まず古美術であるが、古美術商にも様々なタイプがあり、その懐は深い。町で見かける骨董屋さんのようなお店がある一方で、国宝・重文クラスの名品を扱う老舗もある。プライスレンジでいえば、数千円から億を超えるものまである。名品の類いとなればクリスティーズやサザビーズといった海外のオークションも売買の場となる。つまり、古美術マーケットの一部は古くからグローバルな経済圏に開かれているのだ。
 百貨店のマーケットは国内が中心である。全国の百貨店の美術画廊では、週替わりで現代作家をメインとした展覧会が開かれている。しかもひとつのフロアで複数の展覧会が開かれることも多く、数で言えば百貨店は日本の展覧会会場としては圧倒的なボリュームを持つ。それだけの展覧会を百貨店が独自で開催することは不可能である。そこで、日本画商や洋画商が作家から作品を入手し、百貨店に卸すという形態がとられるようになった(作家によっては百貨店と直取引を行う場合もある)。 さて、展覧会数もさることながら、百貨店の一番の強みは顧客リストの厚みであろう。「外商」という言葉を聞いたことがあるだろうか。百貨店では、富裕層の顧客には「外商」がつき、買い物のアドバイスをはじめとした顧客サービスを行う。また、そうしたVIP客向けにホテルを借りて高額商品を販売する外商会もある。そこでは宝飾や服飾、時計などの高級ブランドに並んで美術品も販売される。
 一方、現代美術はどのような状況だっただろうか。上記のマーケットと比較すれば規模は小さいながら、90年代後半から2000年代にかけて熱狂的なファンやコレクターが増えつつあったというのが当時の印象だ(古美術、日本画、洋画、現代美術、工芸のマーケットスケールを考えるにあたり、1992年に始まったアートフェア「NICAF 国際コンテンポラリーアートフェスティバル」が終焉し、「アートフェア東京」へと生まれ変わる流れを説明するとわかりやすいのだが、今回は割愛する。アートフェアについては後日、改めて書く)。当時の現代美術の主流となったのが1990年代に次々に誕生したコマーシャルギャラリーであり、それらのギャラリーを中心としてひとつのシーンが形成されていく。その象徴とも言えるのが1998年にスパイラルで開催されたギャラリーショウ「G9 ニューダイレクション展―9人のギャラリストによるTOKYOアートシーン」展である。ここに参加した9人のギャラリスト[1]とその周辺のギャラリー群は「G9(ジーナイン)系」と称されたが、彼らは先行世代や多ジャンルとは違うという差別化戦略を徹底することで、現代美術における新たなブランドとして確立していった。G9系のギャラリーを中心に、2004年から神楽坂のデザインホテル・アグネスで開催されたホテル型アートフェア「アート@アグネス」は、若いファン層で大賑わいとなり、セールも好調であった(アグネスの流れを汲むアートフェアとしては「G TOKYO」が後年立ち上がったことを挙げておく)。『BRUTUS』など、いくつかの雑誌メディアはこうした新世代のギャラリストとアーティストの登場、そしてその受け手としての若者の感性に敏感に呼応し、現代美術の特集を組むようになっていった。  

 

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