SERIES―1990年代とはなんだったのか 第1回 インタビュー| 中村ケンゴ(後編)「起点としての『眼の神殿』」
2020年代が幕を開けた現在。30年という月日が経ちつつも、文化・経済・政治、あらゆるところで「90年代」は顔を見せ続けている。それは美術分野も例外ではない。現在のアートシーンを考えるためにも、1990年代を総括することは有用である。では、1990年代のアートシーンではなにが起き、当事者たちはなにを考えていたのだろうか。
シリーズ第1回では、1990年代に学生時代を過ごし、1994年に作家としての活動を開始、また2014年には『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』の編著者として1990年代の検証を試みた中村ケンゴに、当時の文化状況と美術の関係について話をうかがった。
ポップであることが批評に
《ジャパニーズ・フロッグス》1994年 130×97.0 cm 和紙、岩絵具、顔料、膠
大学院時代に制作し、1994年の初個展「The World According to Us」(ギャラリーアイエス)に出品された作品。モチーフに用いられたカエルのイメージは、おもちゃ箱のパッケージからとられている。
― 《ジャパニーズ・フロッグス》について、「ポップであることが批評になる」とおっしゃっていますが、それはどういう意味でしょうか。
中村 今では、コンテンポラリーアートが美術業界で大きな存在感を放っていますが、当時は違いました。私は大学での専攻が日本画だったので尚更でしたが、まだまだ、日展などの公募団体が権威を持っていたんです。
美術を生業にするというと、「自由で心の赴くままに」といった素朴なイメージもありますが、公募団体を頂点とする美術業界はとにかく保守的でマッチョな世界です。ある巨匠作家のエピソードですが、妻の方が藝大を首席卒業してずっと優秀だったのにもかかわらず、彼女が夫のために筆を折ったということが美談として語られたりもしていました。当時の美術業界では当たり前だったハラスメントの問題も、今日ようやく議論の俎上に上がってきましたね。それから先ほど話したように、現代美術の世界というのは大学を中心としたインサイダーなもので、市井の人には縁遠いアカデミズムの価値観があります。80年代後半の東京では、フォーマリズムやポストもの派の影響が強い状況でした。
つまり、そうした現代美術へのカウンターとして、ポップであることが批評的に機能したのです。今日からすれば奇妙に感じるかもしれませんが、商業主義であることがカウンターとして機能するような状況がありました。当時現れ始めたコマーシャルギャラリーにもそういった新しさがあったのです。
また、マッチョに対してはフェミニンであることが意味をもちました。例えば、東恩納裕一さんがファンシーなプリント生地やレースを作品の素材に使っていましたが、男性中心主義的な美術とは相反するかわいいモチーフやポップなモチーフを使うこと自体が批評的な態度だったのです。私自身も、安いカエルのおもちゃのくだらないパッケージを描くことで、当時の権威的な美術、日本画との闘争/からの逃走を企てていました。
― 批評としてのポップが機能しなくなる変節点は、どこにあったとお考えでしょうか。
中村 1995年頃から奈良美智さんがメジャーな存在になったことが、象徴的かもしれません。ポップミュージックのレコードジャケットに使われるようなアーティストがフロントラインに出てきたことで、ポップであることが当たり前になったのです。また、コマーシャルギャラリーの台頭により、現代美術もインダストリーとして成立するようになってきたということもあると思います。
コマーシャルギャラリーの台頭
― 90年代には、コマーシャルギャラリーが多数オープンしていますね。
中村 そうですね。1993年にSCAI THE BATHHOUSE、1994年にミヅマアートギャラリー、タカ・イシイギャラリー、1996年に小山登美夫ギャラリーがオープンするなど、今では美術業界の中心にいるコマーシャルギャラリーが次々と出てきました。海外のアートフェアにも出展し、コンテンポラリー・アートを扱う本格的なギャラリーが日本でも増え始めたんです。象徴的だったのは、1998年にスパイラルガーデンで開催された「G9ニューダイレクション展〜9人のギャラリストによるTOKYOアートシーン〜」。これは、当時の九つのコマーシャルギャラリー[1]が集まったアートフェアだったのですが、ここでコマーシャルギャラリーの存在感が大々的に示されました。先ほども言いましたが、現代美術のシーンでは、商業的であること自体が新しかったのです。
― コマーシャルギャラリーの登場で、公募団体を中心とする美術業界のあり方に変化は生じたのでしょうか。
中村 本格的にコマーシャルギャラリーが登場した90年代中頃からは、新聞の展評でも現代美術が取り上げられるようになり、旧美術業界の権威は陰り始めます。しかし、美術業界全体では、現代美術のコマーシャルギャラリーはまだまだ少数派でした。当時の美大生たちに、G9の話をしてもほとんど誰も知らなかったと思います。公募団体を中心とする旧美術業界は、今の自民党と同じようなもので、批評的な支持を得ていなくても、制度的に守られているんですね。
『眼の神殿』の衝撃
― 90年代のアートシーンに影響を及ぼした著作として、北澤憲昭『眼の神殿-「美術」受容史ノート』(1989年)がありますが、どのような影響を受けましたか。
中村 日本画を扱うことに可能性を感じたのは、『眼の神殿』がきっかけでした。というのも、私自身は、積極的に日本画を専攻したわけではなかったんです。単純に受験のスタイルが自分に合っていたくらいの動機で……。新しいもの好きのミーハーな自分には、日本画壇の旧弊な世界も苦手でした。そんなときに、村上さんから「『眼の神殿』はすごい」という話を聞いて私も読んでみたのですが、そこには日本で美術というものがどのように形成されたのかつまびらかに説かれていた。こうした制度論が美術の分野において定着したのは、90年代に入ってからのことです。
それと並行して、日本画をめぐる技法についても問題意識がありました。今でも、美大は油画科と日本画科で分かれていますが、その基準となっているのは技法の違い。この区分けが示すように、和紙や膠、岩絵具といった素材を日本画のアイデンティティとする考え方が一般的なのです。しかし、日本画の技法は、決して、日本固有のものではありません。基本は中国に源流があって、アジアの各地で受け継がれているのです。では、日本画をアイデンティファイするものはなにか。そもそも日本画という概念自体も近代の所産であることを、『眼の神殿』は明らかにしたわけです。ここから立ち上がってくるのが、「現代における日本画は、どのようなものでありうるのか」という問題です。そのなかでも、素材の問題を考えるにあたって、諏訪直樹さんの「素材と語る」[2]というテキストには大変影響を受けましたね。
そして、なんとなく自明とされていたことの起源を問う態度は、「日本人としてARTをやる」という自分自身の実存の問題と重なるものでした。これらの言説に触れることで、単に絵を描くのではなく、「美術とはなにか、日本画とはなにか」という問いを通して制作を考えることにつながりました。
「モダン・ラヴァーズ」展示風景 メグミオギタギャラリー (2018年)
「Japans」展示風景 メグミオギタギャラリー (2018年)
2018年、メグミオギタギャラリーで同時開催された二つの個展。「モダン・ラヴァーズ」では、西欧を中心とした印象派以降の近代絵画を再構成し和紙にプリントし、その上から日本画顔料(岩絵具)で塗りつぶした絵画シリーズを展示。「Japans」では、近代国家とパラレルな関係にある「日本画」の形式を用いながら、「複数形」としての日本を表すことが試みられた。
― その延長線上で、2018年に「モダン・ラヴァーズ」と「Japans」の二つの展覧会を同時開催されたのでしょうか。
中村 そうですね。手法自体は変わっていませんが、ポストモダン的なポップというコンセプトからは離れて、日本における「美術」の生まれ故郷を問題としています。日本における近代という時代を扱うにあたって、本展はどうしても2018年に開催したいと考えました。というのも、この年は明治150年という節目と、平成から令和への改元がシンクロしていたからです。「モダン・ラヴァーズ」展では、ヨーロッパ近代の受容とその齟齬について、「Japans」展では日本列島という地理的な条件とともに、近代から現代へと続くこの列島の文化を、平成時代の視点から様々な「画」を通して見直そうと目論みました。
日本における美術、アートのあり方、そして、現代の文化を考えるためには、その起源である近代=明治時代と向き合う必要があります。しかし近年、日本の近代美術は随分と影が薄くなりました。近代の産物である日本画、洋画については、忘却の危機にあるといっても過言ではありません。ひとつ典型的なエピソードを紹介すると、大学で日本画について講義をする機会があるのですが、講義の最初に、2種類のスライドを見せることにしています。最初をAとして、東山魁夷、髙山辰雄、杉山寧の作品。次にBとして、伊藤若冲、曾我蕭白、円山応挙。スライドを見せた後、「AとB、みなさんはどちらが日本画だと思いますか?」と聞くと、多くの学生が、後者をあげるんです。つまり、今の若者たちは、近世の日本絵画を日本画として認識しているわけですね。画像だけで見ると、前者は油画と区別しにくいし、無理からぬことかなとも思いますが、答えはAです。日本画は近代以降の美術ですから。
この背景には、ゼロ年代に巻き起こった近世の日本絵画への再評価があります。2000年に、京都国立博物館で伊藤若冲の没後200年を記念した大規模な回顧展が開催されましたが、ここを起点に、世間のイメージする日本画の姿が、例えば昭和の三山(東山魁夷、杉山寧、髙山辰雄)を代表とするような公募団体展の日本画から、近世の日本絵画へと変わり始めたのではないかと思うのです。加えて言えば、村上隆さんも、2000年に開催された「スーパーフラット」展では、近代を飛ばして、近世の日本絵画と現代を接続していますね。伊藤若冲や蘇我蕭白については、辻惟雄『奇想の系譜』(1970年)で紹介されていたものの、私が学生の頃には、彼らの存在は忘れ去られていて、知る人ぞ知る作家でした。そこから、山下裕二さんや赤瀬川原平さんらの努力によって再評価が進み、ゼロ年代になって一気にブレイクしたのでしょう。
もちろん、近世について考えることも大切ですが、学校で学ぶ歴史の授業でも、明治維新までで終わることが多いですよね。私たちは、一番近い過去について、知らないことが多いわけです。そういう意味でも、90年代に提起された美術の起源を問う制度論のアプローチは、まだまだアクチュアリティを失っていないと思います。
(前編へ)
[1] G9に参加したコマーシャルギャラリーは以下の通り。レントゲンクンストラウム、小山登美夫ギャラリー、オオタファインアーツ、ハヤカワマサタカギャラリー、ワコウワークス・オブ・アート、ギャラリー小柳、佐谷画廊、タカ・イシイギャラリー、ギャラリー360°。
[2] 初出:『新美術新聞』540・543、1986年7月1日、8月1日号。
「日本画」シンポジウム記録集編集委員会 編『「日本画」―内と外のあいだで : シンポジウム〈転位する「日本画」〉記録集』(ブリュッケ、2004年)所収
TEXT:平澤碧
[関連書籍]
中村ケンゴ編著『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』
90年代に活動を開始した同世代の美術作家―中村ケンゴ、眞島竜男、永瀬恭一。彼ら3人に、元美術手帖編集長の楠見清と、横浜美術館主任学芸員の木村絵理子を加え、2012年、2度にわたって催されたシンポジウム「日本の美術―それぞれの作家の視点から」。「90年代」から「ゼロ年代」のアートシーンをそれぞれの視点で振り返り、多くの反響を呼んだシンポジウムの記録を大幅に増補した書籍版。