レポート|上路市剛トークイベント「人物像をつくるということ」

Text:細川英一、德光椋子


この記事は、上路市剛作品集『受肉|INCARNATION』の刊行記念イベントとして、アーティストの諏訪敦と木村了子を招いて行ったトークショーでの上路の発言を元につくられている。上路は、デビューから約10年分の作品を収録した作品集の編集作業のなかで、自身が人物像に向き合い続ける理由は何かと改めて悩んだという。その答えを求めて、諏訪と木村に対話を申し込んだ。
話のテーマとしては、大きくわけて以下の二つとなった。
一つ目は、上路の技法について。上路は美大を出ておらず、その技法はいわゆる彫刻家のものとは違う。主にハリウッド映画の特殊メイクに使われる技術がベースになっているが、その技法や考え方について発言している。二つ目は、上路がこのトークで考えたかった「なぜ、自分は人物像をつくるか」についてである。
以下にトークイベントでの上路の発言をまとめた。公開にあたっては、編集部による原稿整理や上路による加筆・修正を行っている。


ハリウッド映画の技法について

僕は美大ではなくて京都教育大学という教育系の大学だったので、教えてくれる先生もいないし仲間もいないという状況でした。だから、大阪芸術大学の客員教授のスクリーミング・マッド・ジョージさんの講義とか、京都芸術大学教授のヤノベケンジさんのプロジェクトのところに潜り込むなどして、アート界のことを学ぼうとしていました。あとは村上隆さんの『芸術企業論』とか『芸術闘争論』も教科書がわりに熟読しました。
技術的なことは学外の職人さんやアーティストと積極的に交流し、大学を出た後は特殊メイクのスクールに通って基礎的な技術を学びました。海外の特殊メイクのアーティストが来日し、ワークショップを開くと聞けば飛んでいって、いろいろとお話を聞きました。特殊メイクアップアーティストで現代美術家でもあるKazu Hiro(辻一弘)さんにも話を伺いに行ったこともありますが、彼らには企業秘密というものがなくて、技法についてなんでも教えてくれるんです。ハリウッドでは技術は隠すものではなく、皆でシェアして共存共栄を目指していると彼らは言います。外様である僕のような人にも惜しみなく知識や技術を教えてくれたのも、この精神に基づいているのでしょうね。とはいえ教えてくれても、技術レベルが高すぎて、すぐには再現できないのですが(笑)。
例えば、今回の刊行記念展に出品した日焼け跡のシリーズ〈Border〉での肌の塗り方もハリウッドの技術を元につくられています。木のパネルに薄い肌色の樹脂を5ミリぐらいの厚みで流した上に、アクリル絵具の点描で色を塗り重ねているんです。筆で描くのではなく、車を塗装するような大きなエアブラシを使っていて、エアブラシの空気をすごく少なくすると、大きな粒が飛ぶんです。それを点描として使っています。
ざっと工程を説明すると、薄い肌色ベースの樹脂パネルをつくった上に、赤、緑、黄、紫、青といった5色を重ねていくんです。アクリル絵具をアルコールと水で薄くしたものをエアブラシで粒状に飛ばして、すぐドライヤーで乾かすという作業を何十回も繰り返す。これは、ハリウッドなどの特殊メイクの人が使っている塗り方です。彼らは「特殊メイクの世界で開発された」と言うんですが、一方で美術を勉強した身としては古典絵画の技法だなと思っています。
立体作品でも、シリコンで彫刻をつくるやり方はダミーヘッドといって、ハリウッドで使われている技法をそのまま使っています。考え方自体はブロンズ像の鋳造技術と一緒で、型をつくってから、その中に一回り小さいコアをつくる。型とコアの隙間にシリコンを流していくというやり方ですね。ブロンズ像だとコアを全部砕いて出すのですが、シリコンは自立しないのでコアを残して、余分なところを切って彫刻にしています。

日焼け跡のシリーズ〈Border〉

 

彫刻の「構図」

リアルな顔をつくるにしても、現実をそのまま写すだけでは作品にならないことを、ハリウッドの先人たちから学びました。彫刻の構図ですね。村上さんの著書でも構図についてかなり力を入れて解説していましたが、そうした知識を集約して作品づくりに混ぜていった感じです。例えば、顔面をつくる場合なら、強度を上げるために補助線をどう引くのかを重視するんです。眉間にしわがよっている表情だと、眉間を起点に放射状に線を引く。ほうれい線とか、目の下のいわゆるゴルゴ線とか、眉毛の角度などを放射線状に乗っかるように編集する。あるいは正面から見たときの耳のトップのアウトラインが、この放射線状に合うかどうかを編集したりといった感じです。放射線状のラインに造形を集中させると、漫画の集中線みたいに人の視線を集めることができるので、印象が強くなるんですよ。下向きの顔ならば、耳を少し上にあげて下向きのベクトルを強調することもあります。実作だと《空也上人》は、逆に耳をちょっと下げていて、顎を上げている感じを強調しているんです。オリジナルの空也上人像もかなり耳の位置が低いんですよね。
今のところ僕の作品では、主に顔だけをつくっているので、構図は顔に限定している分、そこまで複雑じゃないのですが、今後、全身像をつくるとしたら、より複雑な考えをしないといけなくなるので大変です。構図の問題は全身像となると、顔面などの細部の構図に加えて全身のダイナミズムを演出するための構図が必要になります。細部の迫力は出しつつ、それが全体の構図と呼応するようにバランスを取るのがとても難しくなると思っています。
構図について、例えばミケランジェロのモーゼは、構想段階から建築の一部として組み込まれている像なんです。設置場所が壁の前なので、鑑賞者の視点がある程度想定された「正面」があります。モーゼではラファエロの聖母子像などに採用されているのと同じ、三角形の構図で作られています。正面や斜めから見て最大限迫力が出るようにたくさんの工夫が隠されています。
このレベルの彫刻になると顕著なのですが、基本的に彫刻というのは空間の支配が不可欠で、それが構図と連動しています。建築物の一部として空間を演出する場合でなくても、ギャラリーなどで作品を展示する時は、その作品を設置する正しい高さや角度というものが存在するし、それを鑑賞者が見てどの様に感じるのかというのは、展示全体の質に影響しますね。ミケランジェロの彫刻は、キリスト教の教会の神性の演出の一部だし、日本の仏像などを見ても、堂内に曼陀羅という構図をつくり出すための舞台装置になっている。教会や仏閣などの空間も含め、彫刻を空間に配置する場合は、作品単体の構図もさることながら、空間全体の構図も重要になります。鑑賞者が存在する場合は、人間の導線もその一部に含まれます。展示全体に迫力や魅力を与えるのには、意外とロジカルな側面が隠れているんです。
作品づくりにおいて、作品の細部から全体の構図が存在し、それが空間全体に広がり、鑑賞者をも考慮に入れたものが、作品展示だと考えています。絵画と比べて、奥行きがある上に、壁に掛けたりせずに独立して空間に存在できる彫刻は考えることが多くて大変です。

人工素材を使う理由

彫刻素材としてシリコンを使う理由として、技術的に一番大きいのは植毛ができることですかね。他の素材でも無理やりやろうと思えばできなくはないんですが、シリコンほどうまくはできません。
天然素材を使わないのは、素材を活かせないという思いがあるからです。石とか木だと、勝てないっていうイメージが一番最初に来る。自分としては素材を全部コントロールしたい思いがあって、もし木彫をするんだとしたら、多分乾漆を選ぶと思います。全部コントロールできるという意味で。よくありがちな意見として、「素材自体の美しさとか魅力」みたいな素材論があるけれど、そういう視点になると、もう屋久杉を愛でるみたいなのと変わらないんじゃないかと思ってしまう(笑)。それって僕が加えた制作という痕跡には価値がないじゃんと。素材に勝てない、太刀打ちできないっていう思いがすごく強くあって、そこに甘えずに、全部何とかコントロールしてみせるという欲求がありますね。
養老孟司先生の講義をYouTubeでよく拝見するんですが、養老先生は脳化社会という話をよくされるんですよ。簡単に言ってしまえば、例えば街のつくりというのは、脳がそのまま反映されたものであると。つまり、人間の脳は体を支配する欲求があるんだけど、同じように自分がコントロールできるものだけを周りに配置していくんだっていうことをおっしゃっています。だから、街からは自然が消えるんだと。自然はコントロールできませんから。僕にはその考え方がすごくしっくりくる。だからこそ、作品も一から全部、コントロールしたいんですね。そこに偶然性は必要ない。ジャクソン・ポロック的な偶然性って、波によって浸食された崖が美しいぐらいの感じだと思っている。偶然性となると、自然に勝てないって思っちゃう。
もちろん自然の素材を重視する制作を否定しているわけじゃなくて、自分にはしっくりこないっていうか、物足りなさがあるということですが。なにか負けた感じがするんですよね。そういう意味では、超絶技巧的な発想はしっくりはくるんです。でもそれは制作行為においては確かにそうだというだけで、じゃあ何で人をつくるんだって問われたときに、技巧では説明できない何かがあるなっていうところで、ようやく本題に入っていくわけですが。

植毛をした頭部のアップ

なぜ人をつくるのか

人体は美しいと思うし、古代の彫刻を見ても、何千年も前からずっと同じことをやってると思うと、どうして人にそんな魅力を感じるんだろうっていうのが、説明できないコンセプトというか、自分の欲求が根底にあります。自分が楽しむためのものとして作品をつくってるというただそれだけなのかもしれないんですけど、何なんだろうなと。別に動物をつくってもいいし、抽象のかたちにしてもいいし、何をつくってもいいじゃないですか。でも自分はありとあらゆる選択肢の中で人間をつくっている。周りを見てみると、人間を描いたりつくったりしている人って人間への執着が強い印象を受けます。
よく言われるのが人物をつくるアーティストというのはコミュニケーションにちょっと問題があって、それを補うものとして人間をつくっていて、その制作行為を通じて対人のコミュニケーションをシミュレートしてるんじゃないかっていう説です。僕は確かに社会に出るのが苦手だし、一人で作品をつくっているときは、これで人肌のぬくもりを感じてるのかなと考えてました。だから一人でいる悲しみみたいなものが作品に力を与えるんじゃないかと思った時期があったんですよ。でも、個人的に人とお話をするのは本当に好きだし、コミュニケーションも得意な方で、恋人もいるし、家族関係も悪くない。
あるいは単純に性欲に基づくものとも考えたけど、それだけでもない。いったい何なんだろうなって。答えはないと思うんですけど。人の魅力にとりつかれてしまったアーティストって一定数いるけれども、彼らを突き動かす欲求はなんだろうっていう疑問がふつふつと湧いてきます。作品集にもコンセプトを書きましたが、「なぜ人間をつくるのか」という根っこの部分には辿り着けていないんですよね。
僕の場合、人物像をつくる際に、ときに性的だったり暴力的だったり際どい表現をすることがあります。そのような作品は発表するのにリスクを伴う場合もあるのですが、敢えてそれを見せることで、観る人と作品を介しての独特なコミュニケーションをしているのかなとも考えています。作品をつくればいいのではなく、作品を見せたいという欲求があるので、鑑賞者の存在は欠かせません。これが承認欲求なのかどうかはわかりませんが、展覧会をいろいろな人に見て欲しいという欲求があります。ただ、作品を見せることが最終目標なのかどうかはわからない。鑑賞者が作品を介して制作者と影響を及ぼし合うみたいな、そのコミュニケーションにこそ、核心みたいなものがあるのかもしれません。人をモチーフとした作品でなければわかり得ない何かがあるのかなと。
作品がどういう存在なのかと考えると、こうしたコミュニケーション説はしっくりくるところがあります。やっぱり作品を発表する先に鑑賞者、第三者、第四者かはわからないけど、他者とのコミュニケーションの媒体として作品が成り立つのかもしれません。
マーケティングして売れそうなものをつくる気もさらさらないし、僕の今の仕事スタイルのまま、自分のつくりたいものだけをつくって、個展を開催してお客さんに見てもらう。作品を通して鑑賞者と相互作用しあえるようなコミュニケーションにこそ、僕の制作行為の目的のようなものがあるのかな?とこの対談を通して感じるようになってきました。ただ、そうだとすると、そもそも作品などを介さずに、僕が直接他者とコミュニケーションすれば良いですよね。なぜそこに作品を挟み込む必要があるのか。展覧会という場を提供するプラットフォーマーになりたいのか、単にシャイだから作品を盾にしているのか、あるいは自己顕示欲なのか……。コミュニケーション説についてはまだまだ掘り下げが必要です。

(2023年6月24日、造形医学研究所にて収録)

 

 

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