「私たちの県展」という気概——高知でなぜ前衛が生まれたのか

1947年4月、ふたりの洋画家が高知県庁の門を叩いた。アメリカ軍による大規模空襲から2年弱、被害の大きかった昭和南海地震からはわずか4か月。急速に復興が進む街で、文化活動の再開を望む声が高まるなか、彼らは「展覧会をやりたい」と訴えたのだ。

ふたりの洋画家とは、山脇信徳と中村博。ふたりは必死に訴えたが、県庁からの答えは「ノー」。復興で手一杯の行政に、美術展の余裕はなかったのだ。しかしその訴えを拾い上げたのが、民間企業・高知新聞社だった。はじめての訴えから、7か月後、高知新聞社の主催で第1回高知県美術展覧会(通称「県展」)が開幕する。
民間による主催=行政から与えられた制度でなかったことから、展示設営をはじめとした運営の多くは、作家たちの自主努力でまかなわれた。このことが作家たちに「県展は私たちのもの」という意識をもたらした。前衛運動にとってしばしば公的な県展は、倒すべき権威となるが、高知県展は、自分たちが作り、守り、育てるべき場——。自分たちで運営する感覚こそが、1960年代に前衛美術が花開く土台となった。
当時の高知にはほとんど画廊がなかったことも高知県展の活況につながった。発表の機会を失うことは、画家として死ぬことに等しい。それほどの切実さの中で、県展は成立した。だからこそ、作家たちの当事者意識は強烈だった。

熱気と暴力が紙一重の時代

県展が「私たちのもの」であることの裏返しとして、熱気は時に暴力と紙一重であった。高知新聞社が発行した『高知県展50年』には、驚くようなエピソードが記録されている。落選した怒りにまかせて出品者が審査員宅を石で襲撃したり、道ばたで出くわした審査員に刃物を抜いて恫喝する作家がいたという。
同書はこれらを「血気盛んな猛者たち」の「いろいろなドラマ」と表現しているが、暴力は暴力だ。しかしそこには、この場が誰かに与えられた制度ではなく、自分たちの死活問題と直結していたという事情が透けて見える。
1950年代半ばから70年代半ばにかけての時期を、県展を主催した高知新聞社の元社長・橋井昭六はこう振り返っている。

「作品的にもっとも県展が活力を見せ、実験を行い、飛躍したのではないかと思う」

橋井昭六「受けつがれる文化の灯──県展50年、新たな出発」『高知県展50年』1996年

具象 vs 抽象—前衛が生まれた熱気

1960年代、県展の洋画部門では具象画と抽象画のあいだに激しい勢力争いが起きていた。1960年12月24日の高知新聞は「抽象画が具象画をリードした」と報じた。同日別の記事では、審査員の具象画家が「わからない抽象であっても見守る雰囲気を作ってほしい」と鑑賞者に呼びかけている。
この「新旧の対立」の熱気の中に、前衛土佐派は生まれた。権威に反旗を翻すのではなく、県展の内側から「最高水準を目指す」と宣言した彼らにとって、県展は戦う相手ではなく成り上がるべき舞台だった。

唯一の女性作家・入交京子

県展が「自分たちのもの」であっても、それは男性を中心とした「自分たち」だったことにも注目したい。第1回(1947年)から第25回(1971年)までの間で、洋画部門での女性の「特選」受賞者はわずか2名にすぎない。また、前衛土佐派の5回の展覧会に参加した合計44名のうち、女性は2名だけだった。
そのなかで特筆すべきは入交京子(旧姓・山﨑)だ。土佐高等学校在学中から高﨑元尚に師事し、5回すべての前衛土佐派展に出品した唯一の女性作家として記録されている。

熱気のなかにすでにあった衰退への萌芽

1947年の創設から現在まで続く高知県展は、高知の前衛美術の土台だった。「与えられた制度」ではなく「自分たちで作った場」という出発点が、作家たちに強烈な当事者意識を与え、前衛土佐派という独特のグループを生んだ。
前衛と制度の「平和共存」——これは矛盾ではなく、この地方特有の条件から生まれた、高知の前衛の形だった。
しかし、その前衛の熱気のなかには、暴力や権力争いを含んだ男性中心の運営が横たわっていた。
一般的に前衛運動は短期間のうちに収束することが多いのだが、「高知の前衛」もまた同じ道を通ったのだ。


この記事は『高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治』(高知県立美術館監修、ART DIVER、2026年3月刊行)の内容をもとに作成しました。本書では、高知県展創設から前衛土佐派の結成、そして崩壊まで、高知の前衛の歩みを作品・資料とともに辿ります。塚本麻莉・富井玲子・原田裕規による論考も収録。
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