山本尚志日記|書×アートのゆくえ「抽象画と書の共通点」

国内外のアートワールドで再評価の機運が高まる「書」。群雄割拠の現代書家のなかでも、「ART SHODO」を提唱し、「モノにモノの名前を書く」というコンセプチュアルなスタイルで、現代書と現代美術とを横断し強烈な存在感を放つのが山本尚志です。
アートダイバーでは、山本の珠玉の作品を収めた『うごく木 山本尚志2016‒2023作品集』を2024年2月に刊行しました。
作品集では作品のビジュアル面にフォーカスをあて、テキストは選び抜いたエッセンスのみを掲載するというミニマルな構成にしました。
一方で、山本は日々SNSでさまざまな情報を発信しています。自身の作品についてはもちろんですが、その話題はアートや書の世界の成り立ち、アーティストのサバイバル術、心構えなど多岐にわたり、広く読まれるべき文章だと強く感じました。
そこで山本に転載の許諾を得て、ここに掲載することとなりました。随時更新です。のんびりとご高覧ください。

編集:細川英一(ART DIVER)


抽象画と書にもし、共通点があるとしたら、それはそこに何を投影すべきか、わかってるかどうか。ここなのではないかとふと思う。
かつてはオートマチスムと言って、自動的に、心の赴くままに筆を動かすという、そうしたことをやっていた画家たちも、書家たちもいたわけ。
だけども、その時代は過ぎ去って、よく言うところの「出尽くして」しまっていて。だから、今は「出尽くしてるからやることがない」と、停滞している人が大勢いるという状況なわけですね。
ここでみなさん、僕の話を聞いて下さい。
もしアーティストが、「過去にやったことがあるから、俺はなんもできない」と言ったら「負け」ですよ、それ。
だから、シミュレーショニズムの捉え方も、過去にやったものを「あえてやってみる」ならよくて、「出尽くして仕方ないから、じゃーそのリバイバルでもしてみるか!」では絶対によろしくないと思うのです。
これは、気持ちの問題なんだけど、かつてのものに「少しでもかする」ものをね、もう一度やろうとするときには、そこに「何らかの意味」が生じないといけないわけ。で、それこそが「新しい」わけですよ。そもそも、その方が意欲的でしょ?
つまり「新しい」とは、今生きてる人間の「意欲」そのものだと思ってます。
仕方ないからもう一度やるのと、意欲的にやるのでは、結果は全く変わってくるわけです。
また、
やってることが単なる模倣か、過去から学んだ上での何かなのかは、
作品に、生き生きとした様子があるのかないのか?
そこで決まると思ってる。
書や抽象画の魅力はアクションなんだけれども、それだけではないことに、多くの人が気づいてる。
今の今、書がこれほどまでにクローズアップされてきた背景には、そこにコンセプチュアルアートの要素、すなわち文字言語が介在するから、という理由が隠されている。
我々書家、いや、少なくともこの私に限って言えば、何を書くべきかもわかっているし、何をどう表現するのかも、読み切った上で書いている。そこにおいて、私の書とはシュルレアリスムでもなければ、抽象画のそれとも違う。さっきも言ったように、これは「コンセプチュアルアート」なのだ。
だから、画家も書家も「わかっててやってる」あるいは「何かを想像してやってる」という理由がなければ、表現としては古いままで、なんらの新しいこともしていないということになってしまうのである。
自分は、最初から井上有一以降の書家を目指していたのもあり、かつてと同じことをやってはいけないことがわかっていた。それだけなのだ。
常に新たな扉を開かなければ、歴史はそこで立ち止まるだろう。誰かがそれをやらなければならない。

(2024年5月7日、山本尚志Facebook投稿より編集。文責細川)

山本尚志Facebook
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